さびしさはまだ見ぬ島の山里を
思ひやるにもすむ心地して
- 歌の意味
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寂しさというものは、まだ見たことのない島の山里を思いやるだけでも、そこに住む心地がして。
- 鑑賞
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第三 藤衣
その頃、数にも入れられぬ古宮がおられた。守貞の親王といい、高倉院の第三皇子で隠岐の法皇の御兄である。昔、後白河法皇が孫宮たちを選ばれた折に泣かれたために位につかず、世を恨めしく思って過ごされ、宮の内は草深く八重葎の茂るばかりに荒れていた。建保の頃、宮の女房の夢に冠をした者が大勢参って剣璽を入れるから用意せよと告げたが、宮は思いもよらず、ついに御髪をおろされた。ところが承久の乱で一院の御一族が皆さすらわれ、しかるべき君もおられぬので、東国の沙汰により、この入道の親王の御子で十におなりの宮が、承久三年七月九日、にわかに位につかれた。父宮は太上天皇となって法皇と申す。孫王で位につかれた例は光仁天皇より後は絶えて久しく、珍しいことであった。貞応元年正月に御元服、御諱は茂仁、御母は基家の中納言の女北白河院である。家実の大臣がまた摂政に返り咲いた。翌年五月に法皇が崩じ、天下は皆黒み渡った。前の御門は四つで廃され、尊号の沙汰さえない。御母后東一条院は山里の御住まいで心細く歎かれる。この宮は後京極良経の姫君で歌の道にも賢かったが、奥深くしめやかで重い御性質であり、佐渡院も限りない志の中で飽かず思われていた。遠い別れの後はいよいよ沈み臥しておられ、古く仕えた女房から衣がえの衣が贈られた返事に歌を詠まれ、また御手習ひのついでにも詠まれた。寛喜の頃、道家がまた関白となり、その女が女御に参って世は花やかである。后の立ち替わりがしきりで、後に安喜門院
鷹司院などの院号があった。道家は寛喜三年に関白を子の教実に譲って大殿となり、御子たちが東の将軍
山の座主
三井寺の長吏
山階寺の別当
仁和寺の御室と要職を占めて、例のない栄えぶりであった。その年十一月、阿波の院が三十七で崩じられる。承明門院の歎きは限りなく、かしこで使われた御調度や隠岐からの御文などを取りしたためたものを御覧じて涙にくれられた。家隆の二位の女小宰相は人より沈んで御服を黒く染め、歌を詠んだ。貞永元年、定家の中納言が承って撰集の沙汰があり、一年のうちに奏せられて新勅撰と申す。同じ月、後堀河院は御悩みが重いために降りられ、二歳の御子が位につかれた。中宮は物の怪に悩まれ、天福元年九月十八日、二十五で崩じられて藻璧門院と申す。定家の中納言の女の民部卿の典侍は限りなく思い沈んで出家し、人の問いへの返事に歌を詠んだ。文暦元年五月には承久の廃帝も十七で亡くなり、八月六日には後堀河院も二十に三つばかり余る御年で崩じられた。嘉禎元年三月末から摂政教実が重く患い、二十六で亡くなったので、道家がまた摂政に返って三度政を執る。冬に御禊
大嘗会が行われた。隠岐ではそうした都の事をほのかに伝え聞かれ、御齢が加わるにつけ尽きせぬ歎き草がしげるばかりの慰めとして、ただ敷島の道にのみ御心をのべられた。都へも便りにつけて題を遣わして歌を召され、家隆の二位はこれをだにと他の人々の歌も取り集めて参らせ、乱の後に出家して如願と名のった秀能も召しに応じた。院は自ら判じて御覧じられ、御手習ひのついでにも歌を詠まれる。この浦に住まわれて十九年ばかり、延応元年二月二十二日、六十で崩じられた。今一度都へ帰ろうという御志は深かったが、ついに空しく終わった。御骨は北面の能茂が首にかけて都へ上り、大原の法花堂に納められ、修明門院の御沙汰で水無瀬殿が渡された。初めは顕徳院と定め申されたが、仁治の頃、後鳥羽院と改めて申されるようになったという。
守貞の親王は高倉院の第三皇子で後鳥羽院の御兄、後に太上天皇の尊号を受けて法皇と申した。その御子が今の御門後堀河院で、御母は基家の中納言の女北白河院である。前の御門すなわち承久の廃帝の御母后東一条院は、故摂政後京極良経の姫君で、佐渡へ移された順徳院の后にあたる。承明門院は阿波の院すなわち土御門院の御母である。光明峰寺殿道家は摂政関白を務め、北の方は公経の大臣の女、その子が洞院の摂政教実、女が中宮藻璧門院である。家実の大臣は普賢寺殿の御子で、道家と摂政を交替した。三条の太政大臣公房の姫君は後に安喜門院、家実の女は鷹司院と申す。小宰相は家隆の二位の女、民部卿の典侍は定家の中納言の女である。秀能は乱の後に頭をおろして如願と名のり、能茂は北面に仕えて入道し院の御供に候した人である。
嘉禎元年、都では摂政教実が二十六で亡くなり、道家が三度目の摂政に返って、冬に御禊
大嘗会が行われた。隠岐ではそうした都の事どもをほのかに伝え聞かれ、あさましいほどの年のつもりよと、御齢に添えて尽きせぬ歎き草がしげるばかりであった。その慰めとして、思いなれた事とて、ただ敷島の道にのみ御心をのべられる。
都へも便りにつけて題を遣わし、歌を召されると、あわれに忘れがたく恋い慕う昔の人々が我も我もと奉った。つれづれに思われるあまり、御自ら判じて御覧じられた。家隆の二位も、今まで生きた思い出にこれをだにとあわれに畏れ多く思って、他の人々の歌もここから取り集めて参らせた。昔の秀能は、乱の後に頭をおろして深く籠もり居り、如願といっていたが、その人もこの度の御歌合に召されたので、今更にその頃の事を思い出したであろうという。この歌合は嘉禎二年七月に成った遠島の御歌合で、院を含む十六人が各十首を寄せ、八十番からなる。
山家という題によって、右に置かれた家隆の歌である。左には御製の「軒端あれて誰か水無瀬の宿の月すみこしままの色やさびしき」が番えられている。
法皇は御自ら判の言葉を書かれ、「まだ見ぬ島を思ひやらんよりは、年久しく住みて思ひ出でんは、今少し志深くや」として御歌を勝とされた。語り手はそれをいとあわれにやさしい御事と評し、この後、院はこうしたはかない事や阿弥陀仏の御勤めなどに紛らわしてお過ごしになると語られる。
初句「さびしさは」は主題の提示で、寂しさというものはと立てる。第二句「まだ見ぬ島の」は、自分がまだ見たことのない島、すなわち隠岐を指し、見ぬ場所を詠むという歌合の題詠の枠を、そのまま実際の隔たりに重ねている。第三句「山里を」で山家の題に応じ、下の句へ渡す。第四句「思ひやるにも」の「も」は、思いやるだけでもという程度の副助詞。結句「すむ心地して」の「すむ」は住むと澄むの掛詞で、御製の「すみこし」と同じ語を受けており、左右の歌が同じ掛詞を共有する構えになっている。「して」は言いさす形で、寂しさに包まれた心地のまま終わる。見ぬ島を思うだけでそこに住む心地がするというのは、隔たった院への思いの深さを、想像の側から述べたものである。判の言葉が、見ぬ島を思いやるより久しく住んで思い出すほうが志が深いとしたのは、この掛詞をめぐる読み比べであり、勝敗の理由がそのまま二首の関係を説き明かす形になっている。
さびし:もの寂しい、心細い
山里:山中の村里
思ひやる:遠くのことに思いを馳せる
すむ:住む。また、澄む
- 作者
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藤原家隆
- 出典
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増鏡
- その他の歌
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