此の春ぞ心の色はひらけぬる
六十あまりの花は見しかど
- 歌の意味
-
この春こそ心の色が開けたことだ。六十あまりの春の花は見てきたけれども。
- 鑑賞
-
第七 おりゐる雲
康元元年、太政大臣実氏の第二の御娘が女御に参られた。女院大宮院の御はらからであるから年を過ごされてはいるが、こうした例は数多くあろうと語り手はいう。十二月十七日、豊の明かりの頃で内わたりが花やかなところへ、いっそう今めかしくめでたく、その日御消息が申された。関白が書かれ、紅のにほひの箔もない八重に重ねた紙を結んで包まれる。時が来て人々が参上し、女御の君は裏濃き蘇芳七
濃き一重
蘇芳の表着
赤色の唐衣
濃き袴を着られ、准后が添って参られた。出車は十両、御童
下仕え
御はしたに至るまで容貌のよい者が選び整えられている。御兄の右大臣公相
内大臣公基も参られ、限りなくよそおしげであった。院の御子にまでなし奉られたので、いよいよ大切にされる様は言うかたない。待賢門院が白河院の御子として鳥羽院に参られた例かと、心あてには思われたと語り手はいう。院の一つ御腹の姫君で今は皇后宮と申す方の内侍が御使に参る。上は十四におなり、女御は二十五であられた。御門はまだ幼くおられるので、かえって侮りがちに思われもしようところ、たいそう洒落て遠慮なく話しかけられるのを、准后は美しと見申された。二十三日にまた御消息が参り、御使は頭の中将通世で、今度も殿が書かれた。この頃殿と申すのは太政大臣兼平の大臣で、岡の屋殿の御弟、後には照念院殿と申した。御手が勝れてめでたく、鷹司殿の御家の始めである。太政大臣が御返しを申され、女の装束に細長を添えてかづけられた。その日初めて内の上が女御の御方に渡られ、餅の使は頭中将隆顕が仕うまつり、太政大臣が夜の御殿から取り入れられた。御心の中の祝いはいかばかりかと推し量られる。年が暮れて正月、女御はやがて后に立たれた。ただ人の御女が后
国母として立ち続き候われる例は稀であろう。大臣の御子二人も大臣で、公相
公基として左右の大将に並んでおられた。太政大臣として二人の大将を引き具して最勝講に参られた御勢いのめでたさは、珍しいほどであったという。后
国母の御親、御門の御祖父として、まことにその器物に足りたと見えられた。昔後鳥羽院に候った下野の君は世の古い人で、大臣に歌を申した。大臣も返され、またこうした御家の栄えを自らもやんごとなしと思い続けて歌を詠まれた。正嘉元年の春の頃から承明門院が御悩み重く、院もいみじく驚かれて御修法などがあったが、ついに七月五日、八十七で崩じられた。ことわりの御年ではあるが昔の御名残とあわれにいたわしく、御法事なども懇ろに掟て仰せられた。明くる年八月七日、二の皇子が坊に居られる。御年十で、後の亀山院である。正嘉三年三月二十日、高野御幸があり、来し方も行末も例があるまいと見えるほどの天下の騒ぎであった。馬鞍から随身
舎人
雑色
童の髪かたち丈姿まで選び整えられ、銀黄金を延べ、唐大和の綾錦を尽くして、いかなる龍田姫の錦もこの類はあるまいと見えたという。後土御門の内大臣定通の御子の顕定の大納言が大将を望まれたのに公基の大臣がなられたので、恨みに堪えず頭をおろして高野に籠もっておられた。院がその室を尋ねて御対面あるべしと仰せ遣わされたが、昨日までおられたのが夜の間に庵を掻き払い跡もなくして、白い砂ばかりを散らしたと見えて人もない。桂の葉室の山庄へ逃げ上られたのである。その由を奏したところ、今更に見えまいというのだ、いとからい心かなと仰せられた。所々への御幸がしげく、吉田の院では常に御歌合などをされ、鳥羽殿には久しくおられて、春の御幸には御門も御鞠に立たれ、二条の関白良実が上鞠をされた。また嵯峨の亀山の麓、大井川の北の岸にあたって立派な院を造られ、小倉の山の梢も戸無瀬の滝もそのまま御垣の内に見えた。橘大后の建てられた壇林寺の跡には浄金剛院を建てて道観上人を長老とし、浄土宗を置かれる。正元元年三月五日、西園寺の花盛りに大宮院が一切経供養をされた。年ごろ思い掟てられたのを院もあまり知られぬまま、女の御願としてまことに賢くありがたい御事であるから、院も同じ御心で執り行われる。その日行幸があり、春宮も同じく行啓される。翌日の御前の御遊びでは御門が御琵琶、春宮が御笛を吹かれ、まだいと小さい御程にびむづらを結い、御かたちも美しくて、吹き立てられた音が雲居を響かせてあまり恐ろしいほどであるので、太政大臣は事忌みもできず目を押し拭って堪えかね、老い知られた大臣
上達部の袖も皆潤い渡った。御遊び果てて文台が召され、院の御製と主の大臣の歌が交わされる。帰られた翌朝、無量光院の花のもとで大臣が昨日の名残を思い出してまた歌を詠まれた。その年八月二十八日、春宮が十一で御元服され、御諱を恒仁と申す。世の中に様々ほのめき聞こえる事があるので、御門は飽かず心細く思われた。夜居の間の静かな御物語のついでに内侍所の御拝の数を数えられたところ五千七十四日であったのを承って、弁の内侍が歌を詠んだ。十一月二十六日、降り居られる夜は空の気色さえあわれで雨が降りそそぎ、物悲しく見えたので、伊勢の御が詠んだという古事さえ今の心地がして心細く思われる。上も思い設けておられたが、剣璽が出られる程、常の御幸にも御身を離れなかった習い、十三年の御名残を引き分かれるのはなおあわれで、忍びがたい御気色を悲しと見申して、弁の内侍が歌を詠んだ。
太政大臣は西園寺実氏で、女院大宮院の御父、御門後深草院の御祖父にあたる。第二の御娘は女御に参られてやがて后に立たれ、後に東二条院と申す。御兄の右大臣公相
内大臣公基はいずれも実氏の御子で、左右の大将に並んでおられた。関白すなわち殿と申すのは兼平で、岡の屋の大臣兼経の御弟、後に照念院殿と申し、鷹司殿の御家の始めとされる。御手が勝れてめでたい人であった。院は後嵯峨院、御門は後深草院、二の皇子は後の亀山院である。皇后宮は院の一つ御腹の姫君にあたる。承明門院は土御門院の御母で、院の御祖母にあたる。下野の君は昔後鳥羽院に候った古い女房である。弁の内侍は信実の朝臣の女で、少将の内侍とは姉妹にあたる。顕定の大納言は後土御門の内大臣定通の御子である。
正元元年三月五日、西園寺の花盛りに大宮院が一切経供養をされた。年ごろ思い掟てられたのを院もあまり知られぬまま、女の御願としてまことに賢くありがたい御事であるから、院も同じ御心で執り行われる。その日行幸があり、春宮も同じく行啓された。
翌日の御前の御遊びでは、御門が御琵琶、春宮が御笛を吹かれた。春宮はまだいと小さい御程にびむづらを結い、御かたちもまほに美しくて、吹き立てられた音が雲居を響かせてあまり恐ろしいほどであるので、天つ乙女もかくやと思われ、太政大臣は事忌みもできず目を押し拭って堪えかね、老い知られた大臣
上達部の袖も皆潤い渡った。御遊びが果てて文台が召される。
西園寺の一切経供養と御遊びがいかめしく響いて、御門も春宮も帰られた翌朝のことである。
無量光院の花のもとで、大臣が昨日の名残を思い出されるのもいみじくて詠まれた歌である。無量光院は西園寺の内に営まれた御堂の一つで、来迎の気色や弥陀如来と二十五の菩薩の姿が現じられていた。
この後、その年八月二十八日に春宮が十一で御元服され、御諱を恒仁と申したことへ話が移る。
初句「此の春ぞ」の「ぞ」は強めの係助詞で、結びは第三句「ひらけぬる」の連体形。数ある春の中でこの春こそはと、一つの春を選び出す。第二句「心の色は」は心の様子を色になぞらえた言い方で、花の色と重ねる下地になる。第三句「ひらけぬる」の「ひらく」は花の開く意と、心が晴れ開ける意との掛詞で、「ぬ」は完了。ここまでで、花が開くように心も開けたと述べる。下の句「六十あまりの花は見しかど」の「六十あまり」は自らの齢で、「花」は毎年の春の桜。「しか」は過去の已然形、「ど」は逆接で、六十余年の花を見てきたけれどもと受け、上の句へ理由を後から添える倒置になる。長く生きて数え切れぬ花を見た者が、この一春を別格として選ぶ形で、前日の御遊びで御門と春宮の御琵琶と御笛に堪えかねて涙を拭われたと地の文に記されているのに応じている。巻五
巻六でこの人が老いを軸に栄えを語ってきた詠みぶりが、ここでは齢の数そのものを歌の中に入れる形に至っている。
ひらく:花が開く。心が晴れ開ける意を掛ける
六十あまり:六十歳あまり。自らの齢をいう
無量光院:西園寺の内に営まれた御堂の一つ
びむづら:少年が髪を耳のあたりで輪に結った髪型
- 作者
-
西園寺実氏
- 出典
-
増鏡
- その他の歌
-