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尋ね来てあかぬ心にまかせなば
千とせや花のかげに過ごさん

歌の意味
尋ね来て見飽きることのない心にまかせるならば、千年もこの花の陰で過ごすことであろうか。
鑑賞
第八 山のもみぢ葉

 正元元年十一月二十六日の譲位の儀式は常のとおりで、十二月二十八日に御即位があった。万事めでたくあるべき限りにして年も返る。降り居の御門は十二月二日に太上天皇の尊号を受けて新院と申す。本院と常は一つに渡られて御遊びがしげく心をやられ、かえってのどやかで見よい御有様に慰められるようであった。中宮も院号の後は東二条院と申し、二条富小路に渡られる。太政大臣も入道され、常盤井といって大炊御門京極にある所に折々住まわれた。この入道殿の御弟で、その頃右大臣実雄と申した人は、姫君を多く持たれた中で優れた方をいとおしく思ってかしずかれ、今上の女御代に出られるべきところ、そのついでに文応元年、入内あるべく思い掟てられた。院にも御気色を賜わられる。入道殿の御孫の姫君も参られるという聞こえはあったが、それほどでもあるまいと押し立たれた。たけき御心であったのだろうと語り手はいう。この姫君の御兄で中納言公宗と申す人は、いかなる御心があったのか、忍ぶ煙にくゆり侘びられるのがいたわしかった。あるまじき事と思い放とうとしても従わぬ心の苦しさに、起き臥し音を泣きがちで、御いそぎが近づくにつけても我にもあらぬ気色でほれ過ごされるのを、大臣もいかにしたものかと苦しく思われる。初秋風の気色立つ艶な夕暮れに、大臣が渡られて御覧じると、姫君は薄色に女郎花などを引き重ねて几帳から少し外れて座られ、その様かたちは常よりも言うかたなく、あてに匂い満ちてらうたく見えられた。几帳を押しやってわざとらしくなく拍子を打ち鳴らし、御箏を弾かせ申される。折しも中納言が参られ、御簾の内に候われる様かたちもまたたいそうめでたく、あくまでしめやかで艶であった。笛を少し吹かれると雲居に澄み上って面白く、御箏の音のほのかにらうたげな掻き合わせの程は、かえって聞きとめられず涙が浮かびそうなのを、つれなくもてなされる。十月二十二日に参られる儀式もめでたく、出車は十両であった。御雑仕の貫川を御門が忍んで御覧じて姫宮が一人生まれ、その姫宮は末に近衛の関白家基の北政所となられた。女御の御様かたちがめでたくおられるので上も思いつかれた。女御は十六におなり、御門は十二の御年であったがたいそう大人しくおよすけておられたので見よい御程であった。ほどなく后立ちがあったので、大臣は心ゆかれること限りない。西園寺の女御も続いて参られるのをいかがあろうかと胸をつぶして思われたが、それほどでもなかった。こちらは九つにおなりで、冷泉の大臣公相の御女、大宮院の御子にされたと聞こえた。いずれも離れぬ御中で競い張り合われる程は、聞きにくい事もあったであろう。この方も后に立たれたので、もとの中宮は上がって皇后宮と申される。今の后は遊びにばかり心を入れられてしめやかにも見え申されぬので、御覚えが劣りざまに聞こえるのを、思わぬ事と世の人も言い沙汰した。弘長三年二月の頃、大方の世の気色もうららかに霞み渡って春風がぬるく吹き、亀山殿の御前の桜がほころび初める気色が常よりも格別であったので、行幸あるべく思い掟てられた。関白二条殿良実がこの三年ばかりまた返り成られたので、御随身どもが花を折って行幸よりも先に参り設けられる。そのほかの上達部も例のきらきらしい限りで残る者は少ない。新院も両女院も渡られた。御前の汀に船どもを浮かべ、をかしい様の童や四位の若い程の者を乗せて花の木かげから漕ぎ出た程は二なく面白く、舞楽も様々に手を尽くされた。御遊の後、人々が歌を奉る。題は「花契遐年」であったという。帰らせ給う日には御贈り物が様々である中に、延喜の御手本を、鴬のいる梅の造り枝につけ奉られるとして、院の上が歌を詠まれた。その御返しを忘れたのは老いのつもりで口惜しいと語り手はいう。その年の五月の頃、本院は亀山殿で如法経を書かれた。後白河院もこうした御事をされたが、それは御髪をおろして後の事であって、これはたいそうな御願であろう。男は花山院の中納言師継一人が候われ、やんごとない顕密の学士どもが召された。上東門院も行われた例によってか、大宮院も同じく書かれたと承る。十種供養が果てて後は浄金剛院へ自ら納められ、関白
大臣
上達部が歩み続いて御供に仕うまつられた。その年九月十三夜、亀山殿の桟敷殿で御歌合をされた。こうした事は白河殿でも鳥羽殿でもしげかったが、この度は心ことに磨かれた。右は関白殿で歌どもを撰り整えられ、左は院の御前で御覧じられる。この頃殿と申すのは円明寺殿の御事で、新院の御位の初めつかたに摂政でおられ、またこの一年ばかり返り成られていた。前の関白殿は院の御方に候われる。左は大殿より数立てを作って、沈で作った風流の州浜の上に白金の舟二つを置き、色々の色紙を書き重ねて積まれた。数も沈で作って舟に入れられる。左右の読師が一度に御前に参って読み上げ、左は具氏の中将、右は行家であった。山紅葉の題で本院の御製が詠まれる。ついに左の御勝ちの数が勝った。披講が果てて夜が更けてゆく程に御遊びが始まり、笛

篳篥
琵琶が奏され、御簾の内でも御箏どもが掻き合わされる。楽の合間に太政大臣や土御門の大納言通成などが朗詠され、河浪も更けゆくままにすごく、月は氷を敷いた心地であった。嵐の山の紅葉が吹き下ろす松風に連れて、御前の簀子で御酒を参る土器の中などに散りかかるのは、わざと艶な事の種にもしてよいほどで、若い人々は身にしむばかりに思っていた。この年ごろ、前内大臣基家、為家の大納言入道、侍従二位行家、光俊の弁の入道などが承って撰歌の沙汰があり、只今日明日にも広まるはずと聞こえた。元久の例として一院が自ら磨かれるので、心ことに光の添った玉どもであろう。その集の序にも、大和島根はこれ我が世なり、春風に徳を仰がんと願い、和歌の浦もまた我が国なり、秋の月に道をあきらめんと書かれたという。金葉集のほかには御子の御名の現れた例もないが、この度は東の中務の宮の御名のりは書かれなかった。新古今の時にあった例によってか竟宴という事も行われた。この集を続古今と申す。
 本院は後嵯峨院、新院は降り居られた後深草院、内の上は今上すなわち亀山天皇である。東二条院は西園寺実氏の第二の御娘で、後深草院の中宮であられた方。太政大臣実氏はこの頃入道して常盤井に住まわれた。その御弟の右大臣実雄は姫君を入内させ、その姫君はほどなく后に立たれる。中納言公宗は実雄の御子で、その姫君の御兄にあたる。西園寺の女御は冷泉の大臣公相の御女で、大宮院の御子とされたと聞こえる。公相も実氏の御子である。関白二条殿良実は光明峰寺殿道家の御子、円明寺殿は一条殿とも申す実経で、同じく道家の御子である。撰集を承ったのは前内大臣基家、為家の大納言入道、侍従二位行家、光俊の弁の入道である。東の中務の宮は宗尊親王で、後嵯峨院の第一の御子として東国の将軍に下られた方である。
 弘長三年二月の頃、大方の世の気色もうららかに霞み渡って春風がぬるく吹き、亀山殿の御前の桜がほころび初める気色が常よりも格別であったので、行幸あるべく思い掟てられた。関白二条殿良実の御随身どもが花を折って行幸よりも先に参り設け、新院も両女院も渡られる。
 御前の汀に船どもを浮かべ、をかしい様の童や四位の若い者を乗せて花の木かげから漕ぎ出た程は二なく面白く、舞楽も手を尽くされた。その御遊の後、人々が歌を奉る。題は「花契遐年」すなわち花が遠い年を契るというものであったという。その折の内の上の御製である。内の上は今上の亀山天皇で、この年十五になられる。
 こうした方面までもたいそうめでたくおられると、古い人々は申したという。この後、帰らせ給う日の御贈り物につけて院の上が「梅が枝に代々の昔の春かけてかはらず来居る鴬の声」を詠まれる。
 『続古今和歌集』に、弘長三年二月、亀山仙洞に行幸あって花契遐年ということを講ぜられた時の今上御歌として入る。

 初句「尋ね来て」は花を訪ねてここまで来たことをいい、行幸という場面をそのまま初句に置く。第二句「あかぬ心に」の「あく」は満ち足りる意で、打消の「ぬ」を伴って見飽きることのない心をいう。第三句「まかせなば」の「なば」は仮定条件で、その心のままに従うならばと条件を立てる。ここまでが仮定で、下の句がその帰結となる。第四句「千とせや花の」の「や」は疑問の係助詞で、結びは第五句「過ごさん」の「ん」(む)。千年もこの花の陰で過ごすことになろうかと推し量る。題の「花契遐年」は花が遠い年を契るという意であるから、千年という数を出して題に応じつつ、それを外から述べるのではなく、自分がその千年をここで過ごすという形に引き取っている点が趣向である。花の陰に千年を過ごすというのは仙境に遊ぶ心地をいう言い方で、亀山殿という御所の名にも通う。巻六の「川舟のさしていづくか我がならぬ旅とはいはじ宿と定めん」と同じく、その場に留まりたいと述べることが主人への最上の賛辞になる型を踏んでおり、行幸の主が院であることを思えば、父院の御所を寿ぐ言葉になっている。

あく:満ち足りる、飽きる
まかす:意のままにさせる、従わせる
遐年:遠い先の年
亀山殿:嵯峨の亀山の麓に後嵯峨院が造営した御所
作者
亀山天皇
出典
増鏡
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