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虎とのみもてなされしは昔にて
今は鼠のあなう世の中

歌の意味
虎のようにばかり扱われていたのは昔のことで、今は鼠が穴にひそむような身だ。ああつらい世の中よ。
鑑賞
第九 北野の雪

 文永三年四月、蓮華王院の供養に御幸があった。一の院は赤色の上の御衣、新院は青色の御袍を着られ、女院の御車には平准后も参られる。御幸には上達部が皇后宮の大夫師継を上首に十人、殿上人十二人、御随身どもは藤
山吹をつけ、居飼
御厩舎人まで世になくきらめいていた。常の見物に過ぎたものであったろうという。行幸は当日の午の時ばかりで諸司百官が残らず参る。御導師は聖基僧正、御方々の引出物どもは法師ばらの丈と等しい程に積み重ねられた。御願文の清書は経朝の三位、料紙は紫の色紙で、額は、かの建て始められた長寛に教長が書いたものが焼けずに残っていたので、この度もそれが用いられた。こうして少し人々の心がのどかに静まって思われるところへ、東に何事か煩わしい事が出てきたとて、将軍が七月八日、俄なるようにして御上りがあった。かねては初めての御上りの折の儀式は二なくめでたかろうとばかり聞いていたのに、思いかけぬ程にいとあやしい御有様での御上りであった。御下りの折に六波羅の北の方に建てられていた檜皮屋に落ち着かれる。この頃、東で世の中を掟て計らう主は相模の守時宗と左京の権の大夫政村朝臣で、時宗は時頼朝臣の嫡子、政村はかの義時の四郎である。京の南六波羅は陸奥の守時茂、式部の大輔時輔と聞こえる。中務の御子の御上りの代わりに、その御子で三つになられる若君が、七月二十七日に将軍の宣旨を蒙られ、やがて四品に叙された。近衛殿の姫君の御腹である。経任の中納言を御使として東へ下されなどして、苦しからぬ御事になったとて、十月ばかりに故承明門院の御跡である土御門万里の小路殿へ移られた後、院の上や御母准后なども参られて初めて御対面があった。さるべき人々も参り仕うまつるなどして世の常の御有様にはなったけれども、建長四年、御年十一で御下りがあって後、今まで十五年の程、賑わしくいみじく崇められてゆゆしかった御住居に引き替えて、物さびしく心細くなどと思われる折々もあったのであろうと語り手はいう。おおかたこの御子が歌の聖でおられることは皆人の口にのぼることで、「枯野の眞葛霜とけて」なども人ごとにめでののしる御歌である。それゆえ、世を乱そうなどと思い寄った武士が、この宮の御歌の優れて詠まれるのを、夜昼たいそう睦まじく仕うまつるうちに、おのずから同じ心の者などが多くなって、宮にもその御気色があるように言いなしたのだとかいう。翌年二月には亀山殿の浄金剛院で十五日に涅槃の儀式を移し行われ、それより五日の御八講に才賢い限りの人々が選び召された。大殿も西八条で故東山殿の御ために八講を行われ、関白二条殿も光明峰寺で結縁灌頂を執り行われる。鷹司殿では昔の御北の方の十三年の法事が大宮殿で厳めしく営まれた。安嘉門院も御法事を行われる。その頃、殿の大将が内大臣となられ、節会が果てるままに大饗が行われた。尊者には新大納言為氏が参られる。東二条院の熊野参りもあった。四月二十三日から院の上はまた亀山殿で御如法経を書かれ、女院も書かれた。五月二十三日には十種供養の御経二部、浄土の三部経も書かれる。斎会の有様はいつよりもいみじく、玉の幡、瑠璃の天蓋が天に光を輝かし、金銀の飾りが地を照らす様は筆も及び難かった。御前の御遊びでは新院や今出川の中納言実兼が御琵琶を弾かれ、勝れた上手どもが手を尽くされる。御経一部は北野の社へ奉納され、今一部と三部経は八幡へ御幸あって籠められ、女院の書かれたものは横川に籠められた。今年は五月雨が常よりも晴れ間なく、伊勢の宮河も岸を浸して斎宮の御参りも御船であった。御下りの後四年になって、古い例にまかせて准后の宣旨が参る。その年九月の頃、左の大臣近衛殿の日野山庄へ一の院
新院
大宮院の御幸があり、世になき清らを尽くされた。同じ頃、安嘉門院は丹後の天の橋立を御覧じに、それより但馬の城崎の出湯を召しに下られる。童舞
白拍子
田楽などを好まれ、古への郁芳門院にもやや勝っておられた。またその頃、秋の雨が日ごろ降って、たまたま雲間が見えて空の気色がもの凄い程に、一の院
新院
大宮院
東二条院などが皆一つ御方におられた。御前に太政大臣公相、常磐井の入道殿実氏も候われて大御酒が参る。太政大臣は本院の御盃を賜わって、官位ともに極めた、中宮がおられるので皇子降誕もあれば家門の栄華は衰えまい、実兼もけしうはない男で後めたくも思わぬが、一つの憂えが心の底にあると申され、それは入道相国に先立ちそうな心地がするということで、うちしおたれられたので皆あわれに聞き思った。その頃また大風が吹いて人々の家々が損なわれ失せる事が数知れず、明堂殿も転び、陰陽寮の守護神の社も転んだ。御占が行われて重き人の御慎みが軽からぬと奏される。果してその頃、西園寺の太政大臣公相が悩まれて、山々寺々の修法も甲斐なく十月十二日に失せられた。入道殿をはじめ思し歎く人々は数知れず、中宮も御服で出られる。御わざの夜、御棺に入れられた御頭を人が盗み取ったのは珍らかなことであった。皇后宮は日に添えて御覚えめでたくなられ、姫宮
若宮などが生まれられたがやがて失せられたので、今年またその御気色があるといかがと思し騒がれ、山々寺々の御祈りがこちたく鳴り響く。大臣は限りない願を立てられ、賀茂の社にも、御調度の中でとりわけ御宝と思われる御手箱に后の宮自ら書かれた願文を入れて神殿に籠められた。文永四年十二月一日、御物の怪どもが現れて叫びとよむ中、えもいわずめでたい玉の男御子が生まれられる。大臣も今ぞ御胸あいて心落ちつかれた。この今宮を本院も大宮院もきわだって持てはやしかしずかれるので、東二条院は西園寺ざまに一方ならず思いむすぼおれ、すさまじく聞かれた。その頃、近衛の左大臣殿へ摂政が渡った。二十二におなりで、岡の屋殿の御太郎君である。御悦び申しに両院より御馬が引かれ、大宮院は琴、東二条院は御笛などを贈られた。西谷殿とも深心院の関白とも申した。
 中務の御子すなわち宗尊親王は後嵯峨院の第一の御子で、建長四年、御年十一で東国の将軍として下られた方である。御母は右中弁平棟範の女で、四条院に兵衛の内侍として候っていた人にあたる。御子の若君は近衛殿の姫君の御腹で、宗尊親王の御上りの代わりに三つで将軍の宣旨を蒙られた。一の院は後嵯峨院、新院は後深草院である。大宮院は西園寺実氏の御女で後深草院
亀山院の御母、東二条院は実氏の第二の御娘で後深草院の中宮であられた方。常磐井の入道殿は実氏、太政大臣公相はその御子で、この巻で亡くなる。皇后宮は右大臣実雄の御女、中宮は公相の御女で後に今出川院と申した。今出川の中納言実兼も公相の御子である。東国で世を掟て計らうのは相模の守時宗と左京の権の大夫政村で、時宗は時頼朝臣の嫡子、政村は義時の四郎である。近衛の左大臣は岡の屋殿兼経の御太郎君で、後に西谷殿とも深心院の関白とも申した。
 文永三年七月八日、東に何事か煩わしい事が出てきたとて、将軍宗尊親王が俄なるようにして御上りがあった。かねては初めての御上りの儀式は二なくめでたかろうとばかり聞いていたのに、思いかけぬ程にいとあやしい御有様での御上りであった。
 御下りの折に六波羅の北の方に建てられていた檜皮屋に落ち着かれる。その後、御子の若君が三つで将軍の宣旨を蒙られ、経任の中納言が御使として東へ下されなどして苦しからぬ御事となり、十月ばかりに土御門万里の小路殿へ移られて、院の上や御母准后とも初めて御対面があった。
 さるべき人々も参り仕うまつって世の常の御有様にはなったけれども、建長四年、御年十一で御下りがあって後、今まで十五年の程、賑わしくいみじく崇められてゆゆしかった御住居に引き替えて、物さびしく心細くなどと思われる折々もあったのであろうとして、この歌が引かれる。
 この後、雪の朝に右近の馬場の方を御覧じに出られて詠まれた「猶頼む北野の雪の朝ぼらけ跡なきことにうづもるる身は」が置かれる。

 初句「虎とのみ」は虎そのものと扱われたことをいい、将軍として畏れられていた身を指す。用いられれば虎となり、用いられなければ鼠となるという中国の故事を踏まえるとされ、第四句の「鼠」との対はその一続きの言い方から来ている。第二句「もてなされしは」の「もてなす」は取り扱う、待遇する意で、受身の形になっているのは、虎とされたのが自分の力ではなく人の扱いによるものであったという含みを持つ。第三句「昔にて」で過去に区切り、下の句が現在へ移る。第四句「今は鼠の」で虎から鼠へ落ちる対をつくり、結句「あなう世の中」の「あなう」は、ああつらいという感動詞の「あな」に形容詞「憂し」の語幹を続けた言い方であるが、同時に鼠の縁で「穴」を掛けており、鼠が穴にひそむさまと、ああつらいという嘆きとが一語に重なる。虎と鼠という落差の大きい対をそのまま身の上に当て、掛詞で嘆きへ着地させる運びで、境涯の逆転を短く言い切っている。巻二で後鳥羽院が隠岐から「限りあればさても堪へける身のうさよ民のわら屋に軒をならべて」と詠んだのと同じく、高い所から落ちた身が二つの語の対で語られる型に属する。

もてなす:取り扱う、待遇する
虎:ここでは将軍として畏れられた身をたとえる
鼠:身をひそめる者のたとえ。「穴」の縁語
あなう:「あな憂」。「穴」を掛ける
檜皮屋:檜の皮で屋根を葺いた建物
作者
宗尊親王
出典
増鏡
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