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かねてより袖も時雨て墨染めの
夕べ色ます峰の紅葉葉

歌の意味
以前から袖も時雨に濡れて、墨染めの夕暮れに色を増してゆく峰の紅葉であることよ。
鑑賞
第十 あすか川

 文永五年正月二十日、本院のおいでになる富の小路殿で、今上の若宮の御五十日があった。明くる年に一院が五十に満たれるので御賀があるはずとて、今から世の急ぎと聞こえる。楽所始めの儀式は内裏で行われ、試楽は二十三日と聞こえたのが雨で延び、明くる日の早朝に人々が参り集う。寝殿の御階の間に一院の御座、その西に新院の御座が設けられ、東は大宮院
東二条院で皆白い御袴に二御衣を着られた。聖護院の法親王
円満院、土御門の中務の宮、仁和寺の御室
梶井の法親王なども残りなく集われ、御前の簀子には関白殿をはじめ上達部が東西に列なる。時が来て舞人どもが参り、実冬の中将をはじめ、狩衣
表着

指貫の色目や縫物
置物のさまが一人一人記されて、万歳楽
地久
陵王
輪台
青海波
太平楽などが舞われた。同じ二月十七日にも新院の富の小路殿で舞御覧があり、大宮院がまず忍んで渡られ、一院の御幸は日たけてなる。冷泉殿からはい渡るほどの近さなので、楽人
舞人が今日の装束のまま歩み続き、御随身十二人が花を折り錦を立ち重ねて御前を花やかに追い罵るさまは二なく面白い。正親町の院も御堂の隅の間から御覧じられた。帰らせ給う程に、赤地の錦の袋に御琵琶を入れて奉られる。こうしているうちに蒙古の軍ということが起こって御賀は止み、人々は口惜しく本意ないと思うこと限りない。公家も武家もただこの騒ぎであったが、程なく鎮まった。今上の若宮は六月二十六日に親王の宣旨があり、同じ八月二十五日に坊に居られる。かく花やかなるにつけても入道殿はあさましく思われ、故大臣に先立たれた歎きに沈んでばかりおられた。中宮は御服の後も参られず、万事引き替えて物怨めしげな世の中である。一院は御本意を遂げられることをようやく思われる。その年の九月十三夜、白河殿で月を御覧じるに上達部
殿上人が例のとおり多く参り集い、御歌合があった。内の女房どもが召されて、色々の引き物は源氏五十四帖の心を様々の風流にして、上達部
殿上人までも分かち賜わる。その折の院の御製が二首引かれる。この御歌によって御本意の事を思い定められたのだと、皆人が袖をしぼって声も変わったという。民部卿入道為家が判ぜられたにも、身を責め心を砕いて書きやる方も侍らずとかや奏したという。神無月の五日、亀山殿へ御幸がある。今日を限りの御旅であるから心ことに整えられ、新院も例のとおりおいでになり、大宮院
東二条院は一つ御車で同じく渡られた。まず北野
平野の社へ御参りがあるので、御随身どもは花を折り尽くし、今日を限りと様あしいまでに装束を競う。両社では馬を上げられた。空さえうち時雨れて、木の葉を誘う嵐も折知り顔にもの悲しく、涙を争う心地の人々が多かった。中務の御子が「今日の袂さぞしぐるらん」と仰せられたのに対する御返しがある。やがてその夜、御髪をおろされた。御戒の師には青蓮院の法親王が参られる。その頃やがて御逆修も始められ、今は法の道をのみもてなされて、止観の談義、真言の深い沙汰、浄土の宗旨などを尋ねられた。明くる年三月一日、月花門院が俄に隠れられた。文永七年神無月の頃には、法皇が御手ずから書かれた法華経一部を供養され、御八講に名高く才勝れた僧どもが召される。第二日の夜に入って行幸もあった。又の年の正月には忍んで新院と御方分かちの事をされ、引出物は伊勢物語の心、次は源氏の物語の心にして、様々になまめかしく興じられた。その又の年の秋、東二条院の御産があり、大法
秘法が残りなく行われる。御気色がただ弱りに弱られるので、院も御手をとらえて泣かれ、候う限りの人も心強くいられない。辛うじて生まれられたのは姫宮であって口惜しかったが、平らかにおいでになるのを喜びとされた。法皇もかえっていたわしくやんごとない事に思われて、いみじく持てはやされる。その頃から法皇は時々御悩みがあり、御修法どもが厳めしく始まる。年が返って正月十七日、亀山殿へ御幸があり、これや限りと上下心細い。道で参るべき御煎じ物を銀の水瓶に入れて持たせていたのが、内野の程で召したところ露ほどもなく、法皇もいっそう御臆病が添って心細く思われた。かねてよりこのためと思し掟てられた寿量院へ二月七日渡られる。十一日に行幸があり、中一日渡られたので泣く泣く万の事を申し置かれた。新院も御対面がある。十七日の朝から御気色が変わるとて善智識が召され、ついにその日の酉の時に、御年五十三で隠れられた。後嵯峨院と申す。文永九年である。二十三日の御初七日に大宮院は御髪をおろされ、天の下は押しなべて黒み渡った。朝夕睦まじく仕えた人々の思い沈むさまは理にも過ぎている。権中納言公雄と申すのは皇后宮の御兄で、早くから故院がいみじくらうたがられ、夜昼御傍を去らず候っていたので、限りある道に後れられた事を若い程にやる方なく悲しいと思い入っておられた。西の対の前の紅梅のいと美しいのを折って、具氏の宰相の中将がその中納言に消息を申し、返しがあった。夜さり対面して何事も申そうと言っていたのを、この中将も故院の御いとおしみの人で同じ心の友と思われたので、日ぐらし待っていたがついに見えず、はやその夜に頭をおろしてしまっていた。公宗の中納言も甲斐ない物思いのつもりであろうか、はかなくなられ、いくほどなく皇后宮までも失せられたので、いよいよ臥し沈んでおられる程に、いと弱くなりまさられる。春宮の御代をも待ち出でられまいと、あわれに心細く思い続けられて詠まれた歌があり、歎きに堪えずついに失せられた。物思いには誠に命も尽きるものであった。世の中は新院がおられるので法皇の御代わりに引き移してそうあろうと世の人も思い申していたが、当代の御一つ筋であるべき様の御掟てであった。長講堂領、播磨の国、尾張の熱田の社などを御処分になる。いつしか院がた
内がたと人の心々も引き別れるようにうちつけ事どもが出て来た。その夏、春宮が例ならず日ごろ経たので、内の上は御胸つぶれて御修法などを騒がれる。御目の内も御身の色も外の外に黄に見えたので御灸をされ、程なく怠られた。今年は地震がしげく世の中も騒がしいようなので慎まれて、十月十五日から円満院の二品親王が内に候われて尊星王の御修法を勤められたところ、二十日の宵に二の対から火が出た。大宮院も内におられた頃で急ぎ出られ、春宮も御車に奉られる。故院の御処分の入った御小唐櫃、何くれの御宝は事故なく取り出されたが、御勘文
御産衣などの入った物は焼けた。上は腰輿で押小路殿へ行幸され、いよいよ世の中の心あわたたしく思われて、おり居なんの御心遣いをされるようであった。
 一院すなわち法皇は後嵯峨院で、この巻で御髪をおろされ、文永九年二月十七日に五十三で崩じられる。新院は後深草院、内の上は亀山天皇である。大宮院は西園寺実氏の御女で後深草院
亀山院の御母、東二条院は実氏の第二の御娘で後深草院の中宮であられた方。入道殿は常磐井の実氏、故大臣はその御子の太政大臣公相である。皇后宮は前の左大臣実雄の御女で、今上の若宮すなわち後の春宮の御母にあたる。権中納言公雄と公宗の中納言はいずれも実雄の御子で、皇后宮の御兄である。土御門の中務の宮は宗尊親王で、後嵯峨院の第一の御子として東国の将軍に下られ、この頃は都に帰っておられた。月花門院は院の御女である。具氏の宰相の中将は院に近く仕えた人、民部卿入道為家は歌の道の家の人で、この御歌合の判を務めた。
 一院は御本意を遂げられることをようやく思われるようになった。文永五年九月十三夜、白河殿で月を御覧じるに、上達部
殿上人が例のとおり多く参り集う。
 御歌合があったので内の女房どもも召され、色々の引き物は源氏五十四帖の心を様々の風流にして、上達部
殿上人までも分かち賜わった。その折の院の御製である。
 前に置かれた御製「我のみや影も変はらんあすか川同じふち瀬に月はすむとも」に続けて詠まれた一首である。
 この御歌によって御本意の事を思い定められたのだと、皆人が袖をしぼって声も変わったという。民部卿入道為家が判ぜられたにも、身を責め心を砕いて書きやる方も侍らずとかや奏したという。
 この年の神無月五日、亀山殿への御幸を最後の御旅として、その夜のうちに御髪をおろされる。御戒の師には青蓮院の法親王が参られた。

 初句「かねてより」は以前からの意で、時をさかのぼって起こす。第二句「袖も時雨て」の「時雨」は秋から冬に降る雨であるが、袖が時雨れるという言い方は涙に濡れることを指し、景と情が最初から重ねられている。「も」は添加で、空だけでなく袖までもという含みを持つ。第三句「墨染めの」は、時雨に濡れて色の濃くなることをいうと同時に、僧衣の墨染めを掛けており、この一語に出家の意が置かれる。第四句「夕べ色ます」は夕暮れに色が増すことで、暗くなるにつれて紅葉が濃く見えるという実際の見えと、墨染めに染まってゆく心とが重なる。結句「峰の紅葉葉」は体言止め。前の御製が変わるのは我のみかと問う形であったのに対し、こちらは色が増すという変化そのものを景として示しており、二首でこれから変わる身のありさまを問いと景の両面から述べている。皆人が袖をしぼったのは、「墨染め」の一語に御出家の決意を読み取ったからである。

時雨:秋から冬にかけて降ったりやんだりする雨
墨染め:黒く染めた色。僧衣をいう
夕べ:夕暮れ
逆修:生前にあらかじめ自分の死後の追善を修すること
作者
後嵯峨院
出典
増鏡
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