したはるる名残に堪えず月を見れば
雲の上にぞ影はなりぬる
- 歌の意味
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慕わしい名残に堪えきれずに月を見れば、その光はもう雲の上のものとなってしまった。
- 鑑賞
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第十四 つげの小櫛
石清水の流れを分けて関の東にも若宮と申す社がおわし、八月十五日に都の放生会を学んで行う。将軍も詣でられ、赤橋という所で御車を止めて降りられる。この将軍は中務の宮の御子で、この頃権中納言として右大将を兼ねられていた。その後いくほどなく鎌倉から騒がしい事が出て来て、将軍が都へ流されると聞こえる。網代の御輿を逆様に寄せて乗せ奉るのもまがまがしく、文永三年から今年まで二十四年、将軍として日の本の兵を従えておられたのに、今日は彼らにくつがえされてかく上られる。御母御息所は近衛殿の大殿と申した方の御女である。道すがらも思し乱れるのか、御たたう紙の音がしげく洩れ聞こえて、猛き武士も涙を落とした。この代わりには一院の御子で、御母は三条の内大臣公親の娘の御匣殿の御腹の方が下られる。十月三日に御元服されて久明の親王と申す。同じ二十五日に鎌倉へ着かれ、宮の中の飾りは帝釈の宮殿もかくやと目も輝く心地であった。時宗の朝臣も頭をおろして法光寺の入道といい、太郎貞時が相模の守として万事を言いつけた。上られた前の大将殿は嵯峨の辺に御髪をおろして、いとかすかにさびしくおられた。年が変わってその年二月の頃、一院が御髪をおろされる。年月の御本意ではあるがたゆたい過ごされていたところ、禅林寺殿が去年の秋思い立たれたのにいとど驚かされたのであろうか。二月十一日、亀山殿で戒を受けられ、四十八におなり、御法名を素実と申す。正月一日、節会などが果てて夕つ方、内の上が皇后宮の御方へ渡られる。御前に御匣殿が候い、それより公守の大納言の女の曹司も差しのぞかれた。永仁六年七月二十二日、春宮に御位を譲って降りられた。霜月になって五節の頃、去年を思い出されて、その折に関白でおられた兼忠の大臣に櫛を遣わすとて歌を詠まれ、御返しがあった。堀川の具守の大臣の女の御腹に生まれられた前の新院の若宮が、六月二十七日に御元服されて八月十日に春宮に立たれる。御諱を邦治と申す。今の御門は十一になられ、御諱を胤仁と申して、あてになまめかしくおられる。譲位の後は中宮も降りられて永福門院と申す。皇后宮もこの頃は遊義門院と申す。法皇の御傍におられたのを、中の院がいかなる便りにかほのかに見奉られて忍び難く思われ、とかくたばかって盗み奉り、冷泉万里小路殿におられる。正安二年正月三日、御門が御元服される。又の年正月の頃、内侍所の御しめが降りたのはいかなるべき事かなど忍びささめく程こそあれ、東よりの御使いが上るとて世の中が騒いで、正月二十一日に春宮が位に即かれた。降り居の御門は御年十四で太上天皇の尊号がある。僅かに三年で降りられたので何事のはえもない。この君を新院と申せば父の院を中の院と申し、御門の御父は一の院と申す。一の院が世の政事を聞こし召される。新帝は十七になられるので、いと盛りに美しく、御心ばえもあてに気高く澄んだ様でしめやかにおられる。三月二十四日に御即位、十月二十八日の御禊には堀川の大臣の姫君が女御代に出られた。又の年は乾元元年、六月十六日に亀山院へ行幸がある。法皇はいと珍しく美しと見奉られた。暁に帰られた後、法皇より内に歌を聞こえさせられ、御返しがあった。一院は忠継の宰相の女の中納言の典侍殿という腹にも男女の御子達が数多おられる中に、勝れられた内親王をいと悲しき物にかしずき申される。この御世にも為世の大納言が承って撰集があり、新後撰集と申す。嘉元元年に披露された。又の年春の頃から東二条院の御悩みが日々に重られ、伏見殿へ出られて遂に失せられた。七十に余られるので理の御事である。法皇もその御歎きの後、おさおさ物も聞こし召さずなどあったのを始めにしてうち続き心よからず、七月十六日、二条富の小路殿で隠れられた。六十二におなりであった。又の日、夜に入って深草殿へ率て渡し奉る。御車を差し寄せて御棺を乗せ奉る程、内どよみ合って心を収める人もない。後深草院と申す。御日数の程は伏見殿に宮達
遊義門院などがおられ、秋さえ深くなりゆくままに、夜とともの御涙が干る間なく思し惑われる。年が返れば嘉元も三年になった。万里小路殿の法皇がまた御悩みとて亀山殿へ移られ、色々に御修法や御祈りをこちたくされたが験もなく、九月十五日の曙に遂に隠れられた。世を背かれた初めつ方はいと際だけく聖だって、女房など御前にさえ参らぬ事であったが、後にはありしよりなおたわれられ、永福門院の御さしつぎの姫君を参らせられて、やがて院号があり昭訓門院と申した。その御腹に一昨年ばかり若宮が生まれられたのを限りなく悲しき物に思われていたのに、今少しだに見奉られずなったのをいみじう思われていた。同じ十七日に御わざの事をされる。網代庇の御車を前の右大臣殿が寄せられ、院の上も庭に降りられた。法親王達三人が藁沓を奉って上の山まで御供される。二十六日、院の上が御素服を奉られ、御方々も御素服を奉られる。昭訓門院はやがて御髪をおろされた。法皇は五十七におなりであった。御骨はこの院に法華堂を建てて納められたので亀山院と申すべきである。禅林寺殿はおられた時より禅院とされ、南禅院というのがこれである。院の二の御子で今は帥宮と申されるのを、法皇はとりわけ御傍去らず馴らし奉って、いみじうらうたがり申されたので、人より異に思し歎かれる。頃さえ時雨がちな空の気色に、山の木の葉も涙を争う心地していと悲しい。所がらもいとどあわれを添えた。川浪の響き、戸無瀬の滝の音までも取り集めた御心の中である。御日数の程は、帥の宮と一つ御腹の内親王などもこの院におられる程、徒然なるままにはかない事などを聞こえかわして、花紅葉につけても睦まじく馴れ聞こえられた。帥の御子は大多勝院の西の廂に渡られる。御前の松の木に這いかかった蔦の紅葉のいたく染めこがしたのを取って、九月三十日の夕つ方、昭訓門院の御方へ奉られ、御返しがあった。ありつる紅葉を西園寺の大納言公顕の宿所へ遣わされ、御返事があった。公顕は女院の御兄なので、しめやかな御山住みの心苦しさに候われていたのである。時雨がはしたなく風が荒らかに吹いて暮れたので、宮は内に入られて御殿油を近く召し、昼御覧じさした御経などを読まれる程に、若殿上人どもが連れ立ってこなたの御宿直に参った。昼の蔦の葉の散りぼうたのを人々が見るので、宮がそれに各々歌を書けと仰せられ、三人が詠む。これらを取り集めて北殿の内親王の御方へ奉られると、御返しがあった。雨がうちそそいでけはいのあわれな夜、いたく更けて帥の宮が例の北殿へ参られると、姫宮も御殿ごもり、候う人々も皆静まったのか、格子などを叩かせられても開ける人がないので、空しく帰られるとて書いて挿させられた。又の日、御返しがあった。月日が程なく移り過ぎれば、院も宮々も各々散り散りに分かれられる。昭慶門院は数多の宮達の御中に勝れて悲しき物に思い聞こえさせられていたので御処分などもいとこちたく、大井川に向かって離れた院のあるのを奉らせられたので、そこにおられる程を川端殿の女院などと人は申した。かの所は臨川寺というようである。
一の院は伏見院で、この巻で御髪をおろされ御法名を素実と申す。中の院は後宇多院、新院は後二条天皇に位を譲って降りられた後伏見院、御門は後二条天皇で御諱を邦治と申す。巻の初めから中ほどまで法皇と申すのは亀山法皇で、この巻で崩じられる。将軍は中務の宮すなわち宗尊親王の御子で、この巻で都へ送り返される。代わりに下られたのは一院の御子で、御母は三条の内大臣公親の娘の御匣殿、御元服して久明の親王と申した。遊義門院は後深草院の御女で、皇后宮であられた方。永福門院は西園寺実兼の御女で伏見院の中宮であられた方。東二条院は西園寺実氏の第二の御娘で、この巻で七十に余って崩じられる。昭訓門院は永福門院の御さしつぎの姫君で、亀山法皇に参られて院号を受けられた方、西園寺の大納言公顕はその御兄にあたる。帥宮は亀山法皇の二の御子で、御母は忠継の宰相の娘で今は准后と申す方である。北殿の内親王は帥宮と一つ御腹にあたり、昭慶門院も亀山法皇の御女である。歓喜園の前の摂政殿兼忠は関白を務めた人である。為世の大納言はこの巻で新後撰集を撰ばれ、為藤の朝臣はその御子で歌の家の人にあたる。清忠
光忠はいずれも殿上人である。
乾元元年六月十六日、亀山院へ行幸があった。新帝は十七になられ、いと盛りに美しく、御心ばえもあてに気高く澄んだ様でしめやかにおられる。法皇はいと珍しく美しと見奉らせ給うた。
暁に帰らせ給った後、法皇より内に聞こえさせ給うたのである。法皇は亀山法皇で、この年の三年後の嘉元三年九月に崩じられる。御門は後二条天皇で、法皇にとっては御孫にあたる。
行幸の名残を惜しんで、法皇から内へ申された歌である。
御返しとして内の上が「君はよし千年のよはひたもてれば相見ん事の数も知られず」と詠まれた。
この後、一院の御子達の事、為世の大納言が承って新後撰集が撰ばれ嘉元元年に披露された事へ話が移り、翌年の東二条院と後深草院の御事へ続いてゆく。
初句「したはるる」の「る」は自発で、慕わずにいられぬ心を表す。第二句「名残に堪えず」は、御幸の去った後の名残に堪えきれずの意で、暁に帰られた後という場面をそのまま述べる。第三句「月を見れば」の「ば」は順接の確定条件。夜明け前に空を仰ぐ動作がここに置かれる。下の句「雲の上にぞ影はなりぬる」の「雲の上」は宮中を指す常套の語であると同時に、実際に月が雲の上にあることをいう。「ぞ」は強めの係助詞、結びは「なりぬる」の連体形で、「ぬ」は完了である。「影」は月の光であるが、慕わしい人の面影の意を負っており、目の前の月と帰っていった御門とが一語に重なる。空を仰いだところ月はもう手の届かぬ高みにあった、というだけの叙述が、そのまま、御門はもう宮中に帰ってしまわれたという嘆きになる仕掛けで、地名も官職も出さずに宮中との隔たりを言い当てている。返しの「君はよし千年のよはひたもてれば相見ん事の数も知られず」が、その隔たりを時の長さで慰める形になっており、隔てを嘆く歌と時を保証する歌とで対をなす。
したふ:慕う、恋しく思う
名残:去った後に残る余韻
雲の上:宮中。実際の雲の上の意も兼ねる
影:月の光。面影の意も兼ねる
- 作者
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亀山院
- 出典
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増鏡
- その他の歌
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