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光無き世は理の秋の月
涙添へてや猶曇るらむ

歌の意味
光のない世となったのは道理である。秋の月も、私の涙が添うのでいっそう曇っているのだろうか。
鑑賞
第十七 春の別れ

 卯月の末つ方から法皇の御悩みが重くなられたので、天の下の騒ぎは思いやるべきである。御門もいみじう思し歎かれ、御修法どももいとこちたく又々始め加えさせられたが、しるしもなく日々に重られるので、夜昼となくいかにいかにと訪い奉らせられる。若い上達部などは直衣に柏ばさみして、夜中暁となく遙かな嵯峨野を寮の御馬で馳せ歩かれた。今はむげに頼みなき由が聞こえたので大覚寺殿へ行幸があり、ありし事を思い出でて万の事どもを聞こえさせられる。上の一御腹の二品法親王性円と申される方をいと悲しき物に思い聞こえさせられて、この大覚寺にそこらの御庄
御牧などを寄せられ、法の主としておられるべく思し掟てられた。その後、御孫の春宮の行啓がある。世を知ろし召さん時の御心遣いなど、今少しこまやかに聞こえ知らせられる。宮は先帝の御代わりにもいかで心の限り仕えようとあらまし思されていたのに、あかず口惜しくていたうしおたれられる。御門との御なからいはうわべはいとよいけれども、まめやかでないのをいと心苦しと思されるが、言に出でられるべきではないので、只大方につけて世にあるべき事ども、またこの頃少し世に恨みあるような人々で御心にはあわれと思される者が数多あるのを、御心のままなる世にもなろう時は必ず御用意あるべくなどと聞こえられた。その夜はとまられたのも知ろし召さず、夜うち更けて少し驚かれて、春宮はいつ返られたのかと宣うので、うち声づくりて近く参られると、未だおられたのかとて、いとらうたしと思される御気色があわれである。大方の気色、院の内のかいしめった有様など万を思しめぐらすと、いと悲しい事が多いので宮はうち泣かれた。心細くいみじとのみ思されるうちに、正中元年六月二十五日、遂に隠れられた。御年五十八におなりで、後宇多院と申す。御門はまた御服を奉られ、明け暮れ懇ろに孝じ奉られる様はいと忝い。御女の皇后宮と聞こえた今は達智門院と申される方も、まして一所をのみ頼み聞こえさせられていたので、心細くいみじと思し歎かれる事は限りない。昔の内侍のかんの殿で近頃院号があって万秋門院と聞こえる方も、故院の御影にてのみ過ごされていたので、より所なくあわれげである。御四十九日は八月十日余りの程であるから、世の気色も何となくあわれが多く、女院
宮達の御心の中どもは朝霧よりも晴れ間がない。十五夜の月さえかき曇っているところへ、故院の御位の時に宰相の典侍として候っていた雅有の宰相の女は、その世の古い友であるから同じ心であろうと思しやるのもむつましくて、万秋門院より宣い遣わされ、御返しがあった。永嘉門院
西花門院など、いずれも思し歎く人々が多い。春宮もいと恋しくあわれとのみ思い聞こえられるままに、御法事をまめやかに勤めさせられた。年もかえった。一昨年ばかりからまた重ねて撰集の事を仰せられたのを、為世の大納言は二度になるからか為藤の中納言に譲ったが、いくほどなくかの中納言は悩んで失せた。いといとおしうあわれである。故為道の朝臣が失せたのは只年月が経ったが絶えぬ恨みであるのに、またこう取り重ねた歎きで、大納言の心の中は言わん方ない。春宮よりしばしば訪わせられる御消息のついでに歌が遣わされ、大納言為世が御返しをした。世に歌詠むと思しい人であわれがり歎かぬ者はない。せめて勅撰の事を撰びはつるまではと、一族の歎きもいとおしげである。故為道の中将の二郎為定というのを、故中納言がとりわけ子にして何事も言いつけていたので、撰歌の事も受け継いで沙汰すべきなどと聞こえる。大納言は末の子の為冬少将をいたくらうたがって、この紛れに引き越そうかと思う気色があるとて、為定も恨み歎いて山伏姿に出で立ち修行に出で失せたなど言い沙汰するので、人々もいとおしうあわれになどもてあつかったが、さすが求め出だして、もとのようにおだしく定まったという。その頃、長月ばかり、まだしののめの程に世の中がいみじく騒ぎ罵る。美濃の国の兵で土岐の十郎とかや、また多治見の蔵人などいう者どもが忍び上って四条わたりに立ち宿っていたのを、告げ知らせる者があったので、俄にその所へ六波羅から押し寄せて搦め捕ったのである。あらわれたと思ったのか、かの者どもはやがて腹を切った。また別当資朝
蔵人の内記俊基も同じように武家へ捕られ、きびしく尋ね問われる。事の起こりは御門が世を乱そうとしてかの武士どもを召したのだと言いあつかうようである。そこで、この事を先ずおだしく止めようと思されて、かの正応にあったような誓いの御消息を遣わされる。宣房の中納言が御使いとして東に下った。古き御世より仕えきて年もたけたうえ、この頃は天の下にいさぎよくむべむべしき人と思われている頃であるから、この事は更に御門の知ろし召さぬ由をけざやかに言いなすと、荒き夷どもの心にもいと忝い事となごんで、無為なるべく奏した。この御使いの賞にか、宣房は大納言になされた。然れば、おおやけは知ろし召されぬにしてもかの人々は逃るべき方なしとて、別当は佐渡の国へ流された。俊基はいかにして逃れたのか都へ返ったが、ありしようには出で仕えず籠もり居た由である。月日程なく移り行いて嘉暦元年になった。三月の初めつ方から春宮が例ならずおられて日々に重られる。様々の御修法どもを始め、伊勢にも御使を奉らせられたが甲斐なく、三月二十日に遂にいとあさましくならせられた。宮の内は火を消したような心地で惑いあった。御乳母の対の君という人は夜昼御傍去らず候いなれていたので、いみじい心惑いで誠に収めがたげである。限りと見えられる御顔に差し寄って、こう残りなき身を御覧じ捨てては御座しましやるまい、今一度御声なりとも聞かせさせられて、いずれへも御供に率ておいでくださいと、声も惜しまず泣き入られる様はいとあわれである。永嘉門院は御子もおられないので、年月この宮を故院が聞こえつけさせられていたので今も一つ院におられる。御息所にもやがて故院の姫宮を女院の御傍にかしずき聞こえられていたのを合わせ奉られたので、又なき様に思し交わして過ごされていたなど、いみじう沈み入られた。常の行啓の様にして、先帝のおられた北白河殿へ入れ奉らせられる。院号などの沙汰もあるべきであったが、おられた時にその事は由なかるべく仰せられ置いたので、内よりも聞こし召し過ごされた。有忠の中納言は先坊の御使いとして東に下り、いつしかと思うようならん事をのみ待ち聞こえていたのに、こうあやなき事が出て来たのでいみじいとも更である。三月三十日、やがてかしこで頭をおろす。心のうちはさこそはと悲しく、歌を詠んだ。都にも前の大納言経継
四条の三位隆久
山の井の少将敦季
五辻少将長俊
公風の少将
左衛門佐俊顕など皆頭をおろした。女房には御息所の御方
対の君
帥君
兵衛督
内侍の君など、すべて男女三十余人が様を変えた。若宮三所、姫宮などもおられた。御息所の御腹ではないが、いずれをも今は昔の御形見とあわれに見奉らせられる。卯月の末つ方、夏木立が心よげに茂り渡るのも羨ましく眺めさせられ、暁がた、ほととぎすの鳴き渡るのもいかに知りてかと御涙の催しであって、歌が詠まれた。兵衛督為定が故中納言のあとを受けて撰んだ撰集の事は、正中二年十二月の頃にまず四季を奏する由が聞こえ、その残りがこの程世にひろまって、いと面白い。御門は事の外にめでさせられて、続後拾遺という。中宮大夫師賢が承って、この度の集のいみじい由を様々仰せ遣わしたのに対し、御返しに為定が詠み、内の御製の御返しがあった。この大夫はもとより中よきどちで、常に消息など遣わすうちに、こう世にほめられるのをいとよしと思って兵衛督のもとへ言い遣わし、返しがあった。この為定のはらからで中宮に宣旨として候う者も上が例のとおり時めかされて若宮が出で物し給うた。一の御子は藤大納言の御腹で吉田の大納言定房の家に渡られ、二の御子もいときらきらしく源大納言親房の御預かりである。こう様々におられるのをこの度いかで坊にと思されたが、かねてより催し仰せられた事であるから、東より人が参って本院の一の宮を定め申した。いとけやけく聞こし召されたが、いかがはせんにて、七月二十四日に皇太子の節会が行われる。八月になって陽徳門院の土御門東の洞院殿への行啓始めがある。先坊の宮は鷹司であるから間近い程で、世のおとないを聞こし召す入道の宮
女院などの御心の中は今更にいと悲しい。嘉暦二年、一の宮が御冠されて中務の卿尊良の親王と申す。正月十六日の節会に珍しく出でられた。二の宮は西園寺の宰相の中将実俊の女の御腹で、帥の親王世良の親王と申す。照慶門院がとりわけ養い奉らせられ、この宮の御乳母は源大納言親房である。常盤井の式部卿の宮は亀山院の御子であるから当代といと懇ろな御中で、この御子達と同じように常はうちつれ御宿直などをされる。今日も御参りがあって御子達が歩み続かれるのはいと面白い。二月になれば、ようやく故宮の御一めぐりの事どもを永嘉門院が営ませられるのもあわれが尽きない。鷹司の大殿も失せられた。この頃の世にはいと重くやんごとなく物しておられたのに、いとあたらしい。北政所は中の院の内の大臣通重の御はらからで、それも様を変えられた。近頃よい人々が多く失せられたのはいと口惜しいと語り手はいう。
 法皇は後宇多院で、この巻の正中元年六月二十五日に五十八で崩じられる。御門は後醍醐天皇でその御子にあたる。春宮は後二条院の一の御子で、法皇の御孫にあたり、嘉暦元年三月二十日に薨じられる。達智門院は法皇の御女で皇后宮であられた方、万秋門院は昔の内侍のかんの殿で近頃院号を受けられた方、宰相の典侍は雅有の宰相の女で故院の御位の時に候っていた人である。性円法親王は御門の一つ御腹の御弟にあたる。永嘉門院は中務の宮の御女で、御子がおられないので故院から春宮を託されていた方、御息所は故院の姫宮で春宮に合わせ奉られた方である。為世の大納言は歌の家の人で、その子の為藤の中納言がこの巻で失せ、故為道の朝臣の子である為定が跡を受けて続後拾遺集を撰ぶ。為冬少将は為世の末の子にあたる。中宮大夫師賢は為定と中よきどちである。有忠の中納言は先坊の御使いとして東に下っていた人にあたる。本院は後伏見院で、その一の宮がこの巻で坊に立たれる。中務の卿尊良の親王
帥の親王世良の親王は御門の御子である。
 正中元年六月二十五日に後宇多法皇が五十八で崩じられ、その御四十九日は八月十日余りの程にあたった。世の気色も何となくあわれが多く、女院
宮達の御心の中どもは朝霧よりも晴れ間がない。
 十五夜の月さえかき曇っている頃である。万秋門院は昔の内侍のかんの殿で近頃院号を受けられた方、宰相の典侍は雅有の宰相の女で、故院の御位の時に候っていた人にあたる。
 万秋門院より「あふぎ見し月も隠るる秋なれば理知れと曇る空かな」と宣い遣わされたのを、いとあわれに悲しと見奉って詠まれた御返しである。
 詠み手は宰相の典侍で雅有の宰相の女、故院の御位の時に候っていた人にあたる。万秋門院とはその世の古い友であった。
 この後、永嘉門院
西花門院など思し歎く人々が多く、春宮も御法事をまめやかに勤めさせられたと語られる。

 初句「光無き」は光がないの意で、贈歌が月の隠れたことを言ったのを受け、その結果として世が光を失ったと述べる。第二句「世は理の」の「理」は贈歌の第四句の語をそのまま受け直したもので、贈歌が空の曇るのを道理といったのに対し、こちらは世が光を失ったこと自体を道理という。同じ語を用いながら、かかる対象を空から世へ移している。第三句「秋の月」は体言止めに近い形で置かれ、ここで一度切れる。下の句「涙添へてや猶曇るらむ」の「や」は疑問の係助詞、「らむ」は現在推量である。「涙添へて」は自分の涙が加わっての意で、空が曇るのは道理によるばかりでなく、見る者の涙が加わってさらに曇って見えるのだという。贈歌が曇りの理由を天の側の道理に帰したのに対し、返しは見る者の涙という人の側の理由をそこに添えており、道理と情との二つを重ねる形で応じている。同じ月と同じ曇りを、天の応答と人の涙という二つの説明で受け取る二首であり、古い友どうしの唱和として無理のない受け方になっている。

光無し:光がない。君を失った世をいう
理:道理、当然の筋道
添ふ:加わる
らむ:現在推量の助動詞
作者
宰相の典侍
出典
増鏡
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