時をえて御幸甲斐ある庭の面に
花も盛りの色や久しき
- 歌の意味
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時を得て御幸の甲斐ある庭の面に、花もまた盛りの色が久しいことであろうか。
- 鑑賞
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第十八 むら時雨
竹の園生は茂いけれども、秋の宮の御腹には只一品内親王ばかりが物しておられるのをいとあかず思し渡られるうちに、この頃珍しき御悩みの由が聞こえたので、いとめでたくあらまほしき御事であろうかと上もいみじく思されて、かねてより御修法どもがこちたく始められる。その程が近くなられると、式部卿の宮の常盤井殿へ出でられ、上も二、三日隔てず思いおられる。陣の内であるから上達部
殿上人が夜昼となく袴のそばを取って参り違う。御兄の兼季の大臣も絶えず候われる。山
三井寺
山階寺
仁和寺、すべて大法
秘法
祭り
祓えが数を尽くして罵る様はいと頼もしい。六月ばかりのいみじく暑い程に壇どもが軒をきしって護摩の煙が満ち満ちた様は、いとおどろおどろしいまでけぶたい。然れども怪しく、さるべき程もうち過ぎ行くので、なおしばしはさこそあれなどと待ち聞こえたが、更につれなくて、十七八、二十、三十月にも余られるまでともかくもおられないので、今はそらごとのようになってしまった。上下の人の心地はあさましとも言うべき際ではない。前坊の初めつ方にも、中の院の内の大臣通重の御娘が参られて十八月で若宮が生まれられたが、やがて御子も母御息所も失せられ、その後に入道の宮が参られたのも十七月ばかりで、既に御気色ありとて宮の中が立ち騒ぐ程に、只ゆくゆくと水のみ出でられてやんだ。元徳元年になった。今年はしはぶきやみが流行って人が多く失せられる中に、伏見院の御母玄輝門院、前坊の御母代の永嘉門院、近衛殿の大北政所など、やんごとない限りがうち続き隠れられたので、ここかしこの御法事がしげくていとあわれである。明くる春の頃、内には中殿で和歌の披講があった。序は源大納言親房が書かれた。かねてよりいみじく書かせられるので人々も心遣いしたであろう。題は花に万春を契るというものと聞こえた。御製、中務の卿尊良の親王、帥の御子世良の御詠が講ぜられ、次々多かったが煩わしいと語り手はいう。三月の頃、春日の社に行幸された。例のいみじい見物であるから桟敷どももえも言わずいどみ尽くした。その後、日吉の社にも参らせられる。今年も人が多く俄病みして死ぬる中に、帥の御子が重く悩まれて、いとあえなく失せられた。内の上の思し歎かれる事はおろかでない。一の御子よりも御才などいと賢く万きやうざくに物しておられたので、今より記録所へも御供に出でられ、議定などにも参られるはずと聞こえていたのにいとあさましい。御乳母の源大納言親房は我が世尽きぬる心地して取りあえず頭をおろした。この人がこう世を捨てたのを、親王の御事にうち添えて方々いみじく、御門も口惜しく思し歎かれる。同じ年の冬の頃、平野
北野の両社に一度に行幸となる。内の御乳母吉田の大納言定房が過ぎにし頃従一位していと珍しくめでたいので、幼い子の宗房というのも少将になされ、色ゆりなどしてこの平野の行幸の舞人に参る。又の年の春、三月の初めつ方、花御覧じに北山に行幸となる。常よりも異に面白かるべい度であるから、かの殿でも心遣いされる。まず中宮の行啓、又の日に行幸があり、前の右の大臣兼季が参られて楽所の事などを掟て宣う。六日の辰の時に事が始まる。寝殿の階の間に御褥が参って内の上がおられ、第二の間に后の宮、その次に永福門院
昭訓門院も渡られたであろうか。万歳楽より納蘇利まで十五帖手を尽くしたのはいと見所が多い。暮れかかる程、花の木の間に夕日が花やかにうつろって山の鳥の声も惜しまぬ程に、陵王の輝いて出でたのはえも言わず面白い。その程、上も御引直衣で倚子につかれて御笛を吹かれる。常より異に雲井を響かす様である。又の日は無量光院の前の花の木蔭に上達部が立ち続かれる。廂に倚子を立てて上はおられ、御遊びが始まる。上も桜人をうたわれ、御声はいと若く花やかにめでたい。その後、歌どもが召される。花を結んで文台にされたのは保安の例というようである。春宮の大夫公宗が序を書かれ、その序に添えて歌が置かれた。御製もあったが、語り手は上の句を忘れたといい、後にも見出だしてとしている。中務の御子の御詠が続く。誰も誰もこの筋にのみ惑わされて、花の御幸の外は珍しい節もないので、そればかりも記し難いと語り手はいい、九日に返らせ給うたと結ぶ。その夏の頃、御門は例ならずおられて御薬の事などが聞こえる。いと重くのみならせられるとて世の中はあわてた様である。折しも、かの一年捕られていた俊基をまたいかに聞こゆる事が出て来たのか搦め取ろうとしたので、内へ逃げて参るのを追い騒いで、陣の辺まで武士どもがうちこみ罵る。上も物覚えられぬ御有様でおおとのごもっていたところへこの由を奏したので、いみじう思される。遂に又の日、六波羅へ遣わしたので東へ率て下った。上は御悩みが怠らせられて、いとど安からず思される事が勝る。日頃も御心にかけさせられていた事であるから、すみやかにこのあらましを遂げようとひたぶるに思し立たれて、忍んでここかしこにその用意をされる。后の宮の御腹の一品内親王が御占に合われて、去年の冬頃より御きよまわりがあり、八月二十日にまず川原へ出でられてやがて野の宮に入られた。この御急ぎが過ぎたので、まず六波羅を御かうじあるべしとて、かねてより宣旨に従っていた兵どもを忍んで召される。源中納言具行が取り持って事を行った。大塔の二品法親王尊雲は弓ひく道にも猛く、大方御本性はやりかにおられてこの事をも同じ御心に掟て宣う。また中務の御子の一つ御腹に妙法院の法親王尊澄と申されるのは今の座主で物しておられるので、方々、比叡の山の衆徒も御門の御軍に加わるべき由を奏した。つつもうとしたが事が広くなったので、武家にも早うもれ聞こえてさにこそあなれと用意する。まず九重をきびしく固め申すべしなどと定めた。元弘元年八月二十四日である。雑務の日であるから記録所におられて人の争い愁える事どもを行い暮らされ、人々もまかで、君も本殿にしばしうち休まれたところへ、今夜既に武士どもが競い参るべしと忍んで奏する人があったので、取りあえず雲の上を出でられた。内侍所
神璽
宝剣ばかりを忍んで率て渡られる。上はなよらかな御直衣を奉り、北の対からやつれた女車の様にして忍び出でられた。日頃の御本意には、まず六波羅を攻められん紛れに山へ行幸あって、かしこへ兵どもを召し山の衆徒をも相具して君の御かためとせられるべしと定められていたので、かの法親王達もその御心で坂本に待ち聞こえられていたが、今はこう事が違ったのであえなしとて、俄に道をかえて奈良の京へおもむかれる。中務の宮も御馬で追いて参られる。九条わたりまで御車で、それより御門も仮の御衣にやつれられて御馬に奉られる程、こはいかにした事ぞと夢の心地に思される。御供には按察の大納言公敏
万里小路の中納言藤房
源中納言具行
四条の中納言隆資などが参った。丑三ばかりに木幡山を過ぎられ、木津という渡りで御馬を止めて東南院の僧正のもとへ御消息を遣わされる。それより御輿を参らせたのに奉って奈良へおいで着きになった。ここに中一日あって二十七日、和束の鷲峰山へ行幸があったが、そこもさるべくもなかったのか、笠置寺という山寺へ入られた。所の様は容易く人の通いぬべきようもなくよろしかるべしとて、木の丸殿の構えが始められる。これよりぞ人々も少し心地を取り静めて、近き国々の兵どもを召し遣わす。さて都には二十四日の夜、六波羅より常陸の守時知が馳せ参って百敷の中をあさり騒ぐ。錦の几帳の内にいつかれておられた后の宮も何の儀式もなく忍んであわて出でられたので、あたりあたりをかきはらい、時の間にいとあさましく、御簾几帳などを踏みしだき引き落として火の影もせず、ここも彼処も暗がりてうち荒れた心地がする。二十五日の曙には武士どもが満ち満ちて、御門の親しく召し使われた人々の家々へ押し入り押し入り捕りもて行く様は、獄卒とかやのあらわれたかといと恐ろしい。万里小路の大納言宣房
侍従中納言公明
別当実世
平宰相成輔が一度に皆六波羅へ率て行かれた。坂本には行幸を待ち聞こえておられたのに引き違えて南ざまへおいでになったので、誠のおられ所を左右なく武家へ知らせじのたばかりであったのか、花山院の大納言師賢を山へ遣わして忍んで御門のおられる由にもてなし、かの両法親王が事を行われつつ六波羅の兵どもの囲みを防がせられた。然れども御門が笠置におられる由が程なく聞こえたので、計られ奉りにけるとて山の衆徒も少々心変わりした。宮々も逃げ出でられて笠置へ詣でられる。大納言は都へ紛れおいでになるとて夜深く志賀の浦を過ぎられるに、有明の月がくまなく澄み渡って、寄せ返る波の音もさびしく、松吹く風の身にしみたのさえ取り集め心細く、歌を詠まれた。その後、辛うじて笠置へはたどり参られた。笠置殿には大和
河内
伊賀
伊勢などから兵どもが参り集う中に、事の始めより頼み思されていた楠の木兵衛正成という者がある。東の夷どもがようやく攻め上る由が聞こえ、もとより京にある武士どもも我先にと競い参る。木の丸殿にはさこそ言えむねむねしい物もない。いかに成り行くべきにかといと心細く思し乱れる。我が御心もての事であるからかこつ方もないが、故郷の空もあわれに思し出でられる。秋も深く成り行くままに、山の木の葉のうちしぐれ谷の嵐の訪るるも、あだの競うかと肝を消す消すの御住居で、いつしか御身をかえた御心地をされるのもあじきなく、歌が詠まれた。既に東の武士どもが雲霞の勢いをたなびかし上る由が聞こえたので、笠置にもいみじう思し騒がれる。もとよりいと険しい山の深いつづらおりに、えも言わず木戸
逆茂木
石弓などしたためられたが、後ろの山から御敵どもがくずれ参って木戸どもを焼き払い、おられるあたり近く既に煙もかかったので、今はいかがせんにて怪しい御姿にやつれてたどり出でられた。座主の法親王尊澄が御手を引き奉られるのもいとはかなげな御有様である。中務の御子
大塔の宮などはかねてよりここを出でられて楠の木が館におられた。少し延びられて御馬を尋ね出だし君ばかり奉られたが、ならわぬ山路に御心地も損なわれて誠に危うく見えられるので、高間の山という渡りでしばし御心地をためらう所に、山城の国の民で深栖の五郎入道とかいう者が参りかかって案内を聞こえたのもいとめざましう口惜しい。東より上れる大将軍で陸奥国の守貞直という者が大勢で参った。今は只ともかくも宣わすべきようもないので、遂に甲斐なく敵のために御身をまかせられた様である。やがて宇治に行幸あるべき由を奏するので、御心にもあらでひかされておられる程、心憂しというも斜めである。九月三十日であるから空の気色さえ時雨がちで涙を催し顔である。平等院の紅葉を御覧じやられるのも、かからぬ御幸ならばとあえない。十月三日、都へ入られるのも思ったのに変わって、いとすさまじげな武士どもが衛府のすけの心地で御輿近くうち囲む。鳳輦ではない網代輿のいと怪しいのに奉られた。六波羅の北なる桧皮屋にはもとより両院
春宮がおられるので、南の板屋のいと怪しいのに御しつらいなどしておられるようにするのもいとおしう忝い。間近い程で万を聞こし召し御覧じふるる事ごとにつけても、いかでか御心が動かぬようはあろう、口惜しう思し乱れる。ならわぬ御宿りに時雨の音さえはしたなくて、歌が詠まれた。中務の宮は正成がもとにおられたが、御門がこうならせられたので今は甲斐なしとて、それも都へ入られて佐佐木の判官時信という者の家に渡られた。徒然と物思し乱れるより外の事なく、歌が詠まれる。この御子は藤大納言為世の御孫で物しておられるので、かの家に常は住まれていた程に、大納言の末の女で大納言の典侍と申される方に御覧じ付かれて、その御腹に姫宮などが出で来られた。さて例の東より御使いがのぼった。西園寺の大納言公宗卿に事の由を申して春宮が御位に即かれる。六波羅からこの度は世の常の行啓の儀式で持明院殿へ入られ、両院も引きつくろった御幸の由である。ひしめき立った世のおとないを聞こし召す先帝の御心地はたとしえなくねたく人悪い。もとの内裏へ新帝が移られ、上達部も残りなく仕えられる。院も常盤井殿においでになって世の政事を聞こし召されるので、後宇多院の昔が思い出でられてあわれである。十月十二日には綸旨が下されて、前の御代の人々、大中納言
宰相すべて十人の官が止められる由が聞こえるのも、昨日まで時の花と見えた人々がつかの間の夢かとあわれである。亀山院の御流れが絶ゆべきではないとにか、先坊の一の宮が太子に立てまつられ、十一月八日に坊に定まられた。入道の宮も御親の心地におられるべきであるから、太上天皇になずらえて崇明門院と聞こゆる。ありし後、おのおの様々まかで散った古女房
上達部
殿上人などが、いつしかと参り集う様は谷の鴬が春を待ちつけた心地でいと頼もしげである。なべて世に年頃埋もれていた人々がいつしか官位様々に思うままなる気色ども、目の前に移り変わる世の有様は今更ならねどいとしるく掲焉なのもあじきないと語り手はいう。
御門は後醍醐天皇で、この巻の元弘元年に笠置へ落ちられ、捕われて六波羅の南の板屋に移される。后の宮すなわち秋の宮は西園寺の御女で、御兄に兼季の大臣がある。中務の卿尊良の親王と帥の御子世良の親王はいずれも御門の御子で、世良は元徳二年に薨じられる。大塔の二品法親王尊雲、妙法院の法親王尊澄も御門の御子にあたり、尊澄は中務の御子と一つ御腹である。春宮は後伏見院の一の宮で、この巻の末に位につかれる。本院は後伏見院、新院は花園院、入道の宮は先坊の御母代であられた方で、この巻で崇明門院と申される。先坊の一の宮がこの巻の末に坊に立たれる。花山院の大納言師賢は御門の御方として山へ遣わされた人、万里小路の中納言藤房
源中納言具行
四条の中納言隆資
按察の大納言公敏らも御門に近く仕えた人々である。源大納言親房は帥の御子の御乳母で、その薨去によって頭をおろされた。藤大納言為世は歌の家の人で、中務の宮はその御孫にあたり、末の女の大納言の典侍との間に姫宮が生まれられた。春宮の大夫公宗は北山の花の御幸の序を書かれた人、東の将軍は久明親王の御子守邦の親王、相模の守高時は貞時の子で、その後見に長崎入道円基があった。
元徳三年の春、三月の初めつ方、花御覧じに北山に行幸となった。常よりも異に面白かるべい度であるから、かの殿でも心遣いされる。六日の辰の時に事が始まり、万歳楽より納蘇利まで十五帖手を尽くされ、陵王の輝いて出でたのはえも言わず面白かった。
又の日は無量光院の前の花の木蔭に上達部が立ち続かれ、廂に倚子を立てて上はおられて御遊びが始まる。上も桜人をうたわれ、御声はいと若く花やかにめでたい。その後、歌どもが召される。花を結んで文台にされたのは保安の例というようである。
春宮の大夫公宗が序を書かれ、その序に添えて置かれた歌である。序には、海内艾安の世、城北花開の春として、我が君の震臨をこの所に促し、重ねて六義の言葉を課し、しばしば数柯の濃花を賞するさまが述べられている。
この後に御製が置かれるが、語り手は上の句を忘れたといい、後にも見出だしてとして下の句のみを伝える。次いで中務の御子の御詠「代々をへて絶えじとぞ思ふ此の宿の花に御幸の跡を重ねて」が置かれる。
初句「時をえて」は時節に恵まれるの意であるが、同時に時めく、勢いを得るという意を負い、序に述べられた海内艾安の世という語に応じる。第二句「御幸甲斐ある」は御幸を迎えた甲斐があるの意で、主人としてこの日を迎えた喜びを述べる。第三句「庭の面に」で場を自らの庭に定め、下の句へ渡す。第四句「花も盛りの」の「も」は添加で、御代ばかりでなく花までもという含みを持つ。結句「色や久しき」の「や」は疑問の係助詞、結びは「久しき」の連体形で、盛りの色が久しく続くであろうかと問う形を取る。序の作者が自らの歌を添えるのであるから、序で述べた御代の栄えを花の盛りに引き取って結ぶ構えになっており、庭という私の場と御代という公の時とを「時をえて」の一語で結んでいる。北山は西園寺の家の地であり、巻五以来この家の花が代々詠まれてきたので、その系譜の末に置かれる一首でもある。
時をう:時節に恵まれる。時めく意も兼ねる
御幸:上皇
法皇などの外出。ここでは行幸をいう
庭の面:庭の表面、庭先
文台:歌会で懐紙を置く台
- 作者
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西園寺公宗
- 出典
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増鏡
- その他の歌
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