古典和歌stream

雲の上に聞こえざらめや和歌の浦に
老いぬる鶴の子を思ふ声

歌の意味
雲の上に聞こえないことがあろうか。和歌の浦に老いた鶴の、子を思う声は。
鑑賞
第十九 久米の佐良山

 元弘二年の春になった。あたらしき御代の年の始めには思いなしさえ花やかである。上も若う清らにおられるので万めでたく、百敷の内は何事も変わらない。さるべき公事の折々、さらでも院
内が同じ陣の内であるから、一つに立ちこんだ馬車が隙なくにぎわしいけれども、見し世の人は一人もまじろわず、参りまかづる顔のみが変わっている。先帝は未だ六波羅におられる。二月の頃、空の気色がのどやかに霞み渡り、ゆるらかに吹く春風に軒の梅がなつかしく香り、鴬の声もうららかであるのも、うれわしき御心地には物憂い音とのみ聞こし召しなされる。長き日影もいとど暮らし難い御慰めにとや聞こえられたか、中宮より御琵琶を奉らせられるついでに、いささかなる物の端に歌を書き添えられ、御返しがあった。遂に隠岐の国へ移し奉るべしとて、三月の初めの七日に都を出でられる。今はと聞こし召す御心惑いどもは言えば更である。所々の歎き、近う仕まつった人々の心地どもも、おき所なく悲しい。ふりにし事を思し出でられるにも、立ち返りまた世を安く思わん事のいと難ければ、万今をとじめにこそと思しめぐらされて、人遣りならず口惜しき契りの加わった前の世のみが尽きせず恨めしい。巳の時ばかりに出でられる。網代の御車に御前どもなどは故院の御世より仕りなれた者どもがある限り参った。御車寄せには西園寺の中納言公重が候われる。去年の今日は北山で花の宴をされたのもあわれに思し出でられ、その日の事をかきつらねて恋しく思される。御車に奉るとて、日頃おられた傍の障子に書きつけさせられた。御供には内侍の三位殿
大納言の君
小宰相など、男には行房の中将
忠顕の少将ばかりが仕える。六波羅よりの御送りの武士、さならでも名ある兵ども、千葉の介貞胤を始めとして覚え異なる限り十人が選ばれて奉る。六波羅より七条を西へ、大宮を南へ折れて東寺の門の前に御車が抑えられる。物見車も所せき程で、よろしき女房も壺装束などをし、かちの物どももうちまじる。若きも老いたるも、尼法師、怪しき山賎まで立ちこんだ様は竹の林に異ならない。各目押しのごい鼻すすりあう気色どもは、げに、うき世のきわめは今に尽くしつる心地がする。君も御簾を少しかき遣って此のも彼のも御覧じ渡され、御目とまらぬ草木もあるまじく見える。岩木ならねば武士の鎧の袖どももしおとけげに見える。都の木末を隠るるまで御覧じ送られるのもなお夢かと覚える。鳥羽殿におられ着いて御よそいを改め、これより御輿に奉られるので、とどまるべき御前どもが空しい御車を泣く泣くやりかえるとて、くれ惑うた気色はいと堪えがたげである。淀の渡りでは、昔八幡の行幸があった時に橋渡しの使いであった佐々木の佐渡の判官という者が、今は入道して今日の御送りを仕っているので、その世の事を思し出でられていと忍びがたく歌を賜わされた。又の日は中務の御子が土佐国へおいでになる。御供に為明の中将が参る。日頃こう怪しい御宿りに物しておられるのを忝く思い聞こえていたのに、遙かな世界にさえ居ておいでになるので、主の時信が経営し騒ぐ。宮が既に立たれるとて瓶にさした花を折らせられ、歌を詠まれた。同じ日、やがて妙法院の座主尊澄法親王も讚岐の国へおいでになる。先帝は今日、津の国昆陽野の宿という所に着かれて、夕づく夜のほのかにをかしいのを眺めておられる。昆陽野より出でられて武庫川
神崎
難波
住吉などを過ぎられ、広田の宮の渡りでも御輿を止めて拝み奉らせられる。葦屋の里、雀の松原
布引の滝なども御覧じやられ、古き御幸どもを思し出でられる。湊川の宿に着かれたところ、中務の宮はこやの宿におられる程で、間近く聞き奉らせられるのもいみじうあわれに悲しく、宮が歌を詠まれた。福原の島より宮は御舟に奉られる。御門は和田の岬
刈藻川をうち渡して須磨の関にかからせられる。かの行平の中納言が関吹きこゆると言ったのは浦よりをちであろう。源氏の大将が泣く音にまがうと宣うた浦波も、今もげに御袖にかかる心地がして、様々御涙の催しである。播磨の国へ着かれて塩屋
垂水という所のをかしいのを問わせられ、さなんと奏するのに、名を聞くよりからき道にこそと宣わせて差しのぞかれた御様かたちは、ふり難くなまめかしい。大倉谷という所を少し過ぎる程に人丸の塚があった。明石の浦を過ぎられるに、島がくれ行く舟どもがほのかに見えてあわれである。野中の清水
ふたみの浦
高砂の松など名ある所々も御覧じ渡され、かからぬ御幸ならばをかしうもありぬべきが、万かき暗す御乱り心地に御目もとまらぬのを、我ながらいたう屈じにけるかなと思される。いと高い山の峰に花が面白く咲き続いて白雲をわけ行く心地がするのも艶であるところに、都の事が数々思し出でられて歌が詠まれる。十二日に加古河の宿という所におられる程、妙法院の宮が讚岐へ渡られるとて、同じ道の少し違った、この川の東の野口という所まで参られた由を奏せられたので、いとあわれに相見まほしう思されたが、御送りの兵どもが許し聞こえないので宮は空しく帰られた。十七日、美作の国におられ着いた。御心地が悩ましくてこの国に二、三日休らわれる程、かりそめの御宿りであるから物深くもなく、候う限りの武士どもがおのずから気近く見奉るのを、あわれにめでたしと思い聞こえる。二十一日、雲清寺という所でいと面白い花を折って忠顕少将が奏し、御返しがあった。また小山の五郎とかいう武士に同じ花を遣るとて少将が詠んだ。こうしてなおおいでになるので、来し方はそこはかとなく霞み渡って、あわれに遠くも来にけるかなと日数に添えて都のいとど隔たりはつるのも心細く思される。ほのかに咲きそむと見えた花の木末さえ、日数も山も重なるに添えてうつろい勝りつつ、上り下るつづらおりにいと白く散りつもって、むら消えた雪の心地がする。久米の佐良山という所を越えられるとて歌を詠まれ、逢坂というのは東路ならでもあったのだと聞こし召しても詠まれる。三日月の中山では昔後鳥羽院が仰せられたという事を思し出でられるのさえ、げに憂かりける例である。御道半ばになれば、御送りの物どもが上下、都出でしよりもなお花やかに今めかしう装束きかえた。四月一日の頃、百敷の宮の中を思し出でられて詠まれる。出雲の国やすぎの津という所より御舟に奉られる。大舟二十四艘、小舟どもは数も知らず続いた。遙かに押し出だす程は今一かすみ心細くあわれで、誠に二千里の外の心地がする。かの島におられ着かれた。昔の御跡はそれとばかりのしるしだになく、人のすみかも稀で、おのずから海士の塩やく里ばかりが遙かでいとあわれなのを御覧じるにも、御身の上は差し置かれて、まずかの古の事が思し出でられる。海づらよりは少し入った国分寺という寺をよろしき様に取り払って御座しまし所と定める。今はさは、かくてあるべき御身ぞかしと思し静まる程、なお夢の心地して言わん方ない。中務の御子も土佐におられ着いて、御送りの武士に歌を賜わされた。都には三月二十二日の御即位の行幸で世の中がめでたく罵る。本院
新院が一つに奉られて待賢門の辺に御車を立てて見奉らせられる。中宮はそのまま御ぐしもたぐる時もなく沈まれた御有様で、遠き御別の悲しさにうち添えて御胸の安き間もなく思しこがれる。后の位も止められて院号の定めなどを人の上のように聞こし召されるのも嬉しからぬ世である。礼成門院とかや申す。彼処に参られた内侍の三位の御腹にも御子達が数多おられる。幼く物しておられるので遠き国までは移し奉らないが、もとの御後見を改めて西園寺の大納言公宗の家に渡し奉られる。八になられるのが御兄であろう。北山におられる程、夕暮の空がいと心すごく山風があららかに吹いて常よりも物悲しく思されたので、詩と歌を作られた。宮の宣旨もいたう時めいて三位した。その御腹の若宮は花山院の大納言師賢の御乳母で事の外にかしずかれられたが、この頃は引き忍んでおられる。母君も世の憂さに堪えず様をかえ、涙ばかりを友にして明かし暮らすところへ、おば北の方さえ失せたと聞いて、時々言いかわしたなま女房のもとから程経て後に歌が届き、返しがあった。この兄の為定の中納言も前の御世には覚え花やかでいと時であったのに引き返してしめやかに徒然と籠もり居たので、祖父の大納言為世が度々院の御気色を賜わられたが、いとふようであったので、心もとなう思いわびて春宮の大夫通顕の君を通して重ねて奏した。院の上はいと不便にこそと宣わせて、やがて御返しを詠まれた。祭など過ぎて世の中がのどやかになった程に、先帝の御供であった上達部どもは罪重き限り遠き国々へ遣わされた。洞院の按察の大納言公敏は下野国へ、花山院の大納言師賢は千葉介貞胤が後ろみて下総国へ下る。五月十日余りに都を出でられ、歌を詠まれた。北の方も歌を詠まれる。源中納言具行も同じ頃東へ率て行かれる。数多の中に取りわけて重かるべく聞こえるのは様異なる罪に当たるべきであろうか。内に候っていた勾当の内侍は経朝の三位の女で、この中納言が未だ下臈であった時から許し賜わって、この年頃二つなき物に思い交わして過ごしてきた仲であった。去年の冬頃に数多聞こえた歌の中にも詠があり、佐々木の佐渡の判官入道が伴って下る折、逢坂の関でも詠まれた。柏原という所でしばし休らい、預かりの入道が東へ遣わした返事を待つ程、物語などを情け情けしう言い交わす。遂に逃るまじき道はとてもかくても同じ事、その際の心乱れなくだにあらばと思って、又の日、頭をおろそうと思うと言えば許された。六月十九日である。かの事は今日なめりと気色を見知って歌を詠み、その日の暮れつ方、遂にそこで失われた。内侍はやがて様をかえ、近江の国高島という渡りの、昔の縁の人々が尊く行って住む寺に立ち入った。万里小路の中納言藤房は常陸の国に遣わされ、弟の季房の宰相も下野の国へ流される。平宰相成輔は駿河の国とかやで失われた。また元亨の乱の初めに流された資朝の中納言も佐渡の島に沈んでいたのを、この程のついでにかしこで失うべき由を預かりの武士に仰せられ、既に斬られる時の頌が伝えられている。俊基も同じように聞こえた。大塔の尊雲法親王ばかりは虎の口を逃れた御様で、ここかしこさすらいおられるのも安き空なく、いかで過ぐし果つべき御身ならんと心苦しく見えた。隠岐の小島には月日ふるままに、いと忍びがたう思される事のみが数を添えた。いかばかりの怠りでこうした憂目を見るのだろうと前の世のみつらく思し知られるにも、いかでその事をも報いてんと思されて、うちたえて御忌いで朝夕勤め行わせられる。徒然に思される折々は廊めく所に立ち出でられて遙かに浦の方を御覧じやられるに、海士の釣舟がほのかに見えて秋の木の葉の浮かんだ心地がするのもあわれで、いづくをさしてかと思されて歌を詠まれた。京では十月になって御禊
大嘗会などの急ぎに天の下が物騒がしく、悠紀
主基の御屏風の歌が人々に召される。書くべき者がないので彼処へ参った行房中将を召し返されましなどと定めかねられるのを、まだきに伝え聞こし召されたので、宵の間の静かなるに御前に異に人もなくこの朝臣ばかり候って、都に言うなる事はいかがあらんとすらん、さもあらばいとこそ羨ましからめとうち仰せられ、火をつくづくと眺められる御まみのいたう時雨れたのを見奉って中将も心強からず、いと悲しい。都には十月二十五日の御禊の行幸、十一月十一日より五節が始まる。年も暮れた。この卯月の頃より年の名が変わって正慶という。大塔の法親王
楠の木の正成などはなお同じ心で世を傾けん謀をのみめぐらす。正成は金剛山千早という所にいかめしい城をこしらえ、大塔の宮の令旨として国々の兵を語らったので、世に怨みある者などが集まり集った。宮は熊野にもおられたが、大峰を伝って忍び忍び吉野にも高野にもおられ通いつつ、猛き御有様をのみあらわされるので、いと賢き大将軍にていますべしとてつき従い聞こえる者がいと多く成り行き、六波羅にも東にもいと安からぬ事ともて騒いだ。内には女御も未だ候われないのに、西園寺の故内大臣殿の姫君で広義門院の御傍に今御方とかや聞こえてかしずかれておられる方を参らせ奉られたので、これや后がねと世の人もまだきにめでたく思ったが、いかなるにか御覚えがいとあざやかでないのが口惜しい。
 先帝は後醍醐天皇で、元弘二年三月七日に都を出でられて隠岐の国へ移され、国分寺を御座しまし所と定められる。中宮は西園寺の御女で、この巻で后の位を止められて礼成門院と申される方。内侍の三位殿は御供に参られ、その御腹の御子達は都に残されて西園寺の大納言公宗の家に渡された。中務の御子は尊良親王で御門の一の御子、この巻で土佐国へ移される。妙法院の座主尊澄法親王は讚岐へ、大塔の尊雲法親王はさすらい歩かれる。行房の中将
忠顕の少将は隠岐までの御供に仕えた人々、為明の中将は中務の御子の御供に参った人である。本院は後伏見院で、この巻で世の政事を聞こし召される。院の上と申すのも同じ方にあたる。新院は花園院、広義門院は本院の女御である。為世の大納言は歌の家の人で、為定の中納言はその孫、宣旨の三位はその女にあたる。花山院の大納言師賢、源中納言具行、万里小路の中納言藤房、平宰相成輔、資朝の中納言、俊基らは先帝の御方として罪に当たった人々である。勾当の内侍は経朝の三位の女で具行と年頃思い交わしていた人である。楠の木の正成は事の始めより頼み思されていた者で、金剛山千早に城をこしらえた。
 この兄の為定の中納言も前の御世には覚え花やかでいと時であったのに引き返して、しめやかに徒然と籠もり居た。祖父の大納言為世は度々院の御気色を賜わられたが、いとふようであったので心もとなう思いわびる。
 春宮の大夫通顕の君を通して重ねて奏した。大夫はうけばりたる伝奏などではおられなかったが、この大納言の歌の弟子で去り難いうえ、事の様も故あるわざであるから、直衣の懐に引き入れて参られた。
 院の上がのどやかに出で居させられて世の御物語などを仰せられる折、大夫が思い歎く様など懇ろに語り申して、ありつる文を引き出だし御気色を取られた。
 大方いとなごやかにおられる君で、まして何ばかり罪ある人でもないので勘じ思されるまではないが、いささかも武家より取り申さぬ事を御心にまかせられぬによって、こう滞っていたのである。院はいと不便にこそと宣わせて、やがて詠まれた御返しがこの歌である。
 この後、祭の御幸の記事へ移り、祭など過ぎて世の中がのどやかになった程に、先帝の御供であった上達部どもが遠き国々へ遣わされる。

 初句「雲の上に」は宮中を指す常套の語で、ここでは自らのおられる所、すなわち訴えの届く先をいう。第二句「聞こえざらめや」の「や」は反語の係助詞で、聞こえないことがあろうか、いや聞こえていると答える。贈歌が「なでか聞こえぬ」と聞こえぬことを問うたのに対し、返しは反語でそれを打ち消し、聞こえていると言い切る。問いの形をそのまま反語に転じて答える受け方である。第三句以下「和歌の浦に老いぬる鶴の子を思ふ声」は、贈歌の語をほとんどそのまま並べ直したもので、贈歌が「八十余りの夜の鶴」と数で言ったのを「老いぬる鶴」と言い替え、「和歌の浦に」を第三句へ移している。結句「子を思ふ声」は体言止めで、贈歌と同じ語で結ぶ。上の句で答えを与え、下の句で相手の言葉を返すという構えであり、聞き届けたという返事そのものが歌の形を取っている。地の文がいと不便にこそと宣わせてやがて御返しと記すのだから、この一首がそのまま許しの意を示したことになる。

雲の上:宮中
ざらめや:…ないことがあろうか。反語
老いぬる:年を経た
勘ず:咎める、処罰する
作者
後伏見院
出典
増鏡
その他の歌