我こそは新島もりよ隠岐の海の
荒き浪かぜ心して吹け
- 歌の意味
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私こそがこの島の新しい島守であるぞ。隠岐の海の荒い波風よ、心して吹け。
- 鑑賞
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第二 新島守
たけき武士の起こりを尋ねると、源平の二流れが時に従って朝廷の守りとなってきた。平氏は桓武天皇の子孫で、清盛の一門が滅びた後、維時の流れはひたすらに民となり、伊豆国北条に平四郎時政がいるばかりであった。源氏では清和天皇より八代の頼朝が、平治の乱で伊豆の蛭が小島へ流されていたのを、後白河院を悩ませる平家に業を煮やした院に召し出され、軍を起こす。平家は寿永の秋に散り果て、頼朝は鎌倉にありながら天下を掌中に思った。建久の初め都にのぼる道すがら、遠江の橋本の宿で遊女を迎えて連歌を交わし、権大納言
右近大将となってすぐ官を返し、諸国の総追捕使を承って家の兵を地頭職に据えた。語り手はこの日本国の衰えの初めはこれからだろうという。東へ帰り下る頃、年ごろ祈りなどしていた吉水僧正が歌を贈り、頼朝が返した。正治元年正月、頼朝は五十三で没する。子の頼家が跡を継いだが落ち着かぬ心ばえで兵たちに背かれ、修善寺で討たれ、幼い一万も失われた。次いで実朝が官位思いのままに上り、右大臣となって鶴岡八幡に神拝した折、頼家の子公暁に討たれる。承久元年正月二十七日のことである。跡継ぎがないので母の二位殿政子が将軍の代わりを務め、やがて九条道家の二歳の若君が鎌倉へ下されて、よろずは義時の心のままとなった。この頃、院はひそかに思い立たれることがあり、近く仕える者たちも弓矢の営みばかりとなる。承久三年四月、御門は四歳の春宮に譲位される。院の企ては次第に漏れ聞こえ、東の代官伊賀判官光季が攻められて腹を切った。東国では義時が弟の時房と嫡子の泰時を大将として大軍を上らせる。泰時は途中から一人引き返し、もし鳳輦を先立てて臨幸があったらどうすべきかと父に問い、義時は、君みずから出御なさるなら兜を脱ぎ弦を切って身を任せよ、そうでなければ命を捨てて戦えと答えた。都でも宇治
勢多の橋を落として備え、御修法も数知らず行われ、院は日吉社に忍んで詣でられたが、童に憑いた神が、かつての御輿振りの折の恨みによって今度は味方できぬと託宣する。六月十日過ぎ、いくばくの戦いもなく官軍は敗れた。乱の後、本院後鳥羽院は隠岐へ、新院順徳院は佐渡へ移され、御門も七十余日で降ろされた。中の院土御門院は初めから与らなかったが、父院が遙かに移られたのに都でのどかにいるのは恐れ多いと自ら望んで土佐へ下り、後に阿波へ移された。隠岐の御住まいは人離れ里遠い島の中で、松の柱に葦を葺いた廊など事そぎた造りだが、そのなりに優美にしつらえられ、はるばると海を見渡す眺めであった。院は四季につけて歌を詠み、七条院や家隆との消息を交わし、折々の御歌を書き集めて修明門院へ奉られる。
源頼朝は清和天皇より八代の流れで、六条判官為義の孫、左馬頭義朝の三男である。北の方は北条四郎時政の女で、その腹に頼家と実朝があった。頼家の子が公暁。時政の子は太郎宗時と次郎義時で、義時の弟に時房、一男に泰時がある。二位殿政子は頼朝の北の方で頼家
実朝の母にあたる。吉水僧正慈円は天台座主を長く務めた歌僧である。後鳥羽院の御母は七条院、順徳院の御母は修明門院、土御門院の御母は承明門院。鎌倉へ下された若君の父は左大臣九条道家で、その北の方は公経の大臣の女である。公経の大臣の北の方は一条中納言能保の女、その母は頼朝のはらからであった。家隆の二位は新古今の撰者に召し加えられ、歌の道につけて院に親しく召し使われた人である。伊賀判官光季は東国の代官として都にあった。
六月十三日、本院後鳥羽院は御船に乗せられて隠岐へ渡られた。遙かな浪路をしのいでおいでになる御心地は、この世の同じ我が身とも思われぬほどであった。
おいでになる所は人離れ里遠い島の中で、海辺より少し引き入って山陰に寄せ、大きな巌のそばだつのを頼りに、松の柱に葦を葺いた廊など、気色ばかりに事そぎた造りである。まことに柴の庵のただしばしと、かりそめに見える御宿りであるが、そのなりに優美で由ありげにしつらえられていた。水無瀬殿を思い出されるのも夢のようで、はるばると見渡される海の眺めは二千里の外も残りない心地がする。潮風がたいそうひどく吹いてくるのをお聞きになって詠まれた歌である。
この歌に続けて「おなじ世に又すみの江の月や見んけふこそよそに隠岐の島もり」が置かれ、以後、隠岐での四季折々の御歌が語られてゆく。この巻の名「新島守」もこの歌の第二句に由来する。
初句「我こそは」の「こそ」は強めの係助詞で、他ならぬ自分がと名のり出る構えを作る。第二句「新島もりよ」の「島守」は島の番人のことで、新しくこの島を守る者だと自称する。「よ」は呼びかけとも詠嘆ともとれる助詞で、そこで一度切れる。第三句「隠岐の海の」で場所を据え、第四句「荒き浪かぜ」を呼びかけの対象として立て、結句「心して吹け」は命令形。配流の身でありながら、島の守り手を名のって波風に命令するという転倒がこの歌の眼目で、流された者が島の主人として振る舞うところに帝王としての気位がそのまま残っている。巻名「新島守」はここから採られており、前の巻の「奥山のおどろの下も踏みわけて道ある世ぞと人に知らせん」と同じく、意志と命令で言い切る詠みぶりが通っている。
島守:島の番をする者
心す:気をつける、心得る
事そぐ:飾りを省いて簡素にする
柴の庵:柴で葺いた粗末な仮の住まい
- 作者
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後鳥羽院
- 出典
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増鏡
- その他の歌
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