知らざりし昔に今やかへりなん
かしこき代々の跡ならひなば
- 歌の意味
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知らなかった昔に、今こそ立ち返ることができようか。かしこき御代々の跡を習うならば。
- 鑑賞
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第五 内野の雪
今の后の御父は右大臣実氏、その父は故公経の太政大臣である。公経はかつて夢を見られたことがあって、源氏の中将が瘧病のまじないをしたという北山のほとりに、世に知らぬほど立派な御堂を建て、名を西園寺といった。この所はもと伯の三位資仲の領であったのを、尾張国松枝という庄と換えられたものである。もとは田畠が多くひたすら田舎めいていたのを、掘り返し崩して艶なる園に造りなし、山のたたずまいは木深く、池は心ゆたかに海のように湛え、峰から落ちる滝の響きも涙を催すほどで、心ばせ深い所の様である。本堂の西園寺の本尊の如来は生身もかくやと厳かに現され、善積院は薬師、功徳蔵院は地蔵菩薩、池のほとりに妙音堂、滝のもとには不動尊があり、石橋の上には五大堂、成就心院では愛染王の秘法が行われる。北の寝殿に大臣は住まわれた。めぐる山の常盤木がたいそう古びた中に、なつかしいほどの若木の桜などを植え渡すとて、大臣が歌をうそぶかれた。京では様々にめでたい事ばかりが多い中、佐渡の島では御悩みと聞こえてほどなく九月十二日に順徳院が崩じられた。四十六におなりであった。年が変わって寛元元年、五月二十六日から最勝講が始まり、関白をはじめ上達部
殿上人が残らず参られる。左右大将の車を陣に立てるとて争いののしり、恐ろしいほどであった。翌日は久我の前内大臣通光が鳥羽の御家で八講をされ、一門の人々が多く集われた。二十八日は内の最勝講五巻の日、二十九日は法性寺の浄光明院で普賢寺殿の御忌日の法事があり、尊い事ばかりが多かった。中宮は去年から懐妊しておられ、六月になってその程が近いので十三社の奉幣勅使が立てられ、七仏薬師
五壇の御修法などが始まる。十日の曙からその御気色があって殿の内が立ち騒ぎ、天下がののしり立って馬車が走り違う。后の宮はたいそう苦しまれ、日が高くなるにつれて色々の御物の怪が名のり出てかしがましく、大臣
北の方の思い惑われる様は悲しい。内には更衣腹の若宮が二所おられたが、この事を待たれて坊が定まらぬ程であった。未の下り、御兄の公相の大納言が「皇子御誕生ぞや」と高らかに言われるのを聞く人々の心地は、夜が明けたようであった。父大臣は誠かと言われるままに喜びの涙を落とされる。十二日に三夜、十四日に五夜、十六日に七夜、九夜は承明門院の御沙汰で、それぞれ産養の儀式が行われた。年頃思いむすぼほれていた女院の御心の中も、名残なく晴れられた。土御門院の姫宮覚子内親王も院号を受けられ、正親町院と申す。その夜には兵衛の内侍腹の若宮の御五十日の儀式もこの院で行われた。中宮の若宮は二十八日に親王の宣旨があり、七月二十八日に中宮も宮も内に参られ、後七月二日に内で御五十日があった。八月十日、すがやかに太子に立たれる。後の深草院である。中頃はさほどでもなかった御家が近頃は世にも重く、この后の宮が参られ春宮が生まれられて、いよいよ栄えまさられた。父の入道殿公経も命長くこうした御末を見られ、その年の十月に熊野に詣でられる。作法のゆゆしさは昔の御幸にも立ち勝るほどであった。十一月十一日には土御門院の御十三年の法事が金原で営まれ、承明門院も渡られた。十二月一日には石清水の社の行幸、五日には賀茂の社の行幸があり、六日には仁和寺の御室准后の灌頂があって、世の中がののしり響き合った。翌寛元二年、東の大納言頼経が悩まれる由が聞こえ、六つになられる御子に譲って都へ帰られる。若君はその日に将軍の宣旨を下されて頼嗣と名のられた。泰時朝臣も一昨年入道して孫の時頼朝臣に譲ったので、この頃の天下の御後見は相模守時頼が務め、兵も靡き従い、世も静かに治まっていた。寛元四年正月二十八日、御門は春宮に位を譲り申される。この御門もまた四つにおなりであった。光明峰寺殿の三郎君、左大臣実経が二十四で摂政となられる。後に円明寺殿と申し、一条殿の御家の始めである。女院の御父実氏も太政大臣となって牛車を許される。その頃、北山の花の盛りに院に奏された歌があり、御返しは伝わらない。御即位御禊も過ぎ、大嘗会の頃、信実の朝臣といった歌よみの女で少将の内侍と申す人が大内の女工所に候っていたところ、雪がひどく降り積もった暁に太政大臣が歌を言い遣わし、少将の内侍が返した。後嵯峨院はいつしか所々への御幸がしげく、御遊びなどを今めかしく好まれる。西園寺への初めての御幸は珍しい見物で、太政大臣が御あるじを申された様はいかめしかった。御贈物に代々の御手本を奉るとて大臣が歌を詠み、御製の返しがあった。中宮も位を去られて大宮女院と申す。院は石清水の社に詣でられて日頃おいでになり、世の人も残らず仕うまつった。御心にも一年の事を思い出されてことに畏まり申され、御歌を多く詠まれて宝殿に籠められた。宝治の頃、神無月二十日過ぎに紅葉を御覧じに宇治へ御幸され、橘の小島に御船をさしとめて楽の音を吹きたて、平等院に渡られて数々の面白い事があり、網代の氷魚に夜もすがらののしり明かして帰られた。
今の后は右大臣実氏の御女で、実氏の父が故公経の太政大臣、西園寺を建てた人である。公経は峰殿すなわち光明峰寺殿道家の御舅であり、東の将軍の御祖父にあたる。后の御兄に公相の大納言があり、公基
実雄も同じ御ゆかりの殿ばらである。母北の方は四条の大納言隆衡の女であった。後嵯峨院は土御門院の御子で、承明門院はその御母。中宮との間に生まれた皇子が後の深草院、兵衛の内侍腹の若宮が宗尊親王である。覚子内親王は土御門院の姫宮で、正親町院と申す。光明峰寺殿道家の御子には、洞院の摂政教実、二条殿の福光園院殿良実、一条殿の円明寺殿実経、東の将軍頼経があり、頼経の子が頼嗣である。北条泰時は入道して孫の時頼に譲り、時頼が相模守として天下の後見を務めた。少将の内侍は信実の朝臣の女で、歌よみとして知られた人である。
後嵯峨院は早くから所々への御幸がしげく、御遊びなども今めかしいさまに好まれた。西園寺へ初めて御幸があった様は、いと珍らかな見物であったと語り手はいう。
太政大臣実氏が主人を務められた様は厳めしく、言わずとも思いやるべきほどであった。西園寺は実氏の父公経が北山に営んだ寺で、実氏はその子、后の御父にあたる。
御幸の御贈物として代々の御手本を奉られ、大臣が「伝へきく聖の代々の跡を見て古きを移す道ならはなん」と詠み奉ったのに対する御返しである。
この後、中宮も位を去られて大宮女院と申すこと、院が石清水に詣でられて御歌を宝殿に籠められたことが語られ、宝治の頃の宇治の御幸で巻が閉じられる。
初句「知らざりし」は、自分が知らなかったの意で、贈歌の「伝へきく」を受け止めた語である。相手が言い伝えに聞くと言ったのに対し、こちらは知らずにいたと応じ、二人ともじかには見ていない昔だという前提を共有する。第二句「昔に今や」の「や」は疑問の係助詞で、結びは第三句「かへりなん」の「ん」(む)。今こそ立ち返ることができようかと、可能性を問う形を取る。第四句「かしこき代々の」は贈歌の「聖の代々」を言い換えたもので、第五句「跡ならひなば」の「跡」も「ならふ」も贈歌の語をそのまま受けており、下の句はほとんど贈歌の言葉で組み立てられている。「なば」は仮定条件で、習うならばと条件を後置し、上の句の問いに理由を添える倒置の構えになる。贈歌が習ってほしいと願う形であったのに対し、御製は習うならば昔に返れようかと自らに引き受けており、諫めを受け入れる姿勢がそのまま返歌の形に表れている。
かしこし:恐れ多い、すぐれている
跡:先人の事跡。筆跡
ならふ:手本として学ぶ
御手本:習字の手本とする筆跡
- 作者
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後嵯峨院
- 出典
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増鏡
- その他の歌
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