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色も香も重ねてにほへ梅の花
九重になる宿のしるしに

歌の意味
色も香も重ねて美しく匂え、梅の花よ。この宿が九重の内裏となったしるしとして。
鑑賞
第六 烟の末々

 宝治二年十一月二十日頃、紅葉を御覧じがてら宇治へ御幸があった。上達部
殿上人は思い思いの狩衣に菊紅葉の濃き薄き、縫物
織物
綾錦を、かねてから用意していた。二十一日の朝ぼらけに出御され、宇治川の東の岸に設けられた御船で平等院の釣殿に着かれる。本堂で御誦経があり、阿弥陀堂
御経蔵
懺法堂まで残らず御覧じ渡された。川の左右の岸に篝を白く焚いて鵜飼どもが召され、御台が参る。翌日の暮方には槙の島
梅の島
橘の小島を御覧じ、船中に設けられた楽器で管絃が始まり、水の底も耳を留めるかと思われるほどで、宇治の優婆塞の宮が「へだてて見ゆる」と詠まれたという遠の白浪までが艶な音を添えるようであった。二十三日の還御の日には御手本
和琴
御馬二疋が贈られ、院からも主人の大臣に御馬が贈られる。左大臣は一品を賜わって拝舞された。この御留守の間に二条油小路から火が出て、閑院殿の御膳屋が焼け、神代より伝わる御釜も焼け損なわれた。この釜は昔三つあり、平野
忌火
庭火と申したが、円融院の御代永観の頃に二つは失われ、残る一つにこの事が起きたので、神祇官に尋ねられて古い事どもが考えられた。十二月二十五日には宰相の三位の若宮、後の宗尊親王の御書始があり、七つにおなりであった。年が明けて宝治三年、拝礼が行われ、人々の立ち並ぶ位置をめぐって後々まで沙汰があった。四日には承明門院への御幸はじめ、続いて大宮院の内裏への御幸はじめがある。皇后宮は院の御姉で、位におられた時は御母代とも申された方、後に仙華門院と申す。院の若宮で十三におなりは公宗の中将の女の御腹で、正月二十八日に円満院の法親王の弟子となられ、その夜すぐ御髪をおろして御法名を円助と申した。二月一日の夜、閑院殿の二条面の対から火が出て内裏が焼け、御門は剣璽ばかりを取り具して門を急ぎ出られる。内裏の焼亡は天徳四年以来二十余度に及び、承元の後は四十四年なかったのに、去年の御釜の損傷に続いてこの事が起きたので、院もあさましく思われた。院の御所とはい渡るほどの近さに移られ、北の対のつまの紅梅がいと面白く咲いて院の御前から見えるので、院は艶な薄様に書かせてその梅に結びつけさせられた。御返しは弁の内侍が承るはずであったが、今出川の大臣から申されたといい、それも忘れてしまったのが口惜しいと語り手はいう。世の中が騒がしいとて三月十八日に建長と改まったが、なお火災は静まらず、二十三日には姉小路室町から出た火が百余町を焼き、未の時ばかりに蓮華王院の御堂に燃えつき、三十三間の御堂の千体の千手も一時の炎に連なられた。双林寺
岡崎
中御門と火が続き、二十三日から晦日に及ぶまで日を経て燃え上がり、都は三分の二が焼けた。ただ事ではないとて陰陽師七人が召されて御占が行われ、重き御慎みと申したので御修法が始められる。院は位を降りられた後、年ごとに春は必ず石清水に七日籠もって五部の大乗経を供養され、御下向の後は賀茂に御幸、平野
北野も定まった御事とされ、寺には嵯峨の清涼寺
法輪
太秦などへ御幸されて、神を敬い仏を尊ばれることは来し方も行末も例があるまいと世の人は申し合った。鳥羽殿も近頃はひどく荒れて池も水草に埋もれていたのを、いみじく修理し磨かれて、初めて御幸があった時、「池の辺の松」という題で講ぜられ、太政大臣が序を書かれた。その折の歌が引かれる。太政大臣の津の国吹田の山荘にもしばしばおいでになり、川に臨む家であるから秋深い月の盛りには門田の稲、妻どう鹿の声、砧の音、峰の秋風、野辺の松虫が取り集められ、鵜飼を下ろさせて篝火の川面を珍しく御覧じた。日ごろおいでになって人々に十首の歌を召された折の御製に、主の大臣はこの家の面目と喜ばれた。降り居られた院はまだ三十にも満たれず、御門はまして幼く、摂政さえ若くおられたので、女房の中に混じって乱碁
貝おほひ
手まり
偏継などをして日を暮らされた。節会
臨時の祭などの公事を女房に真似させて御覧じ、太政大臣は興じて小さい笏を作らせて奉る。大納言の三位殿を関白になし、按察の典侍以下の人々を皆男の官に当ててその役を勤めさせ、中納言の典侍を権大納言実雄の君に当てられた折には、襪を履くことはとてもかなうまいといって曹司に下がるので、上も大いに笑われた。その折の贈答が引かれる。五月五日には所々から御かぶとの花
薬玉が多く参り、三条の大納言公親が奉った蓬に「ふかき」の文字を結びつけたのをめぐって、弁の内侍と公親の贈答があった。天王寺へ詣でられたついでに住吉へも御幸があり、大宮院も参られて、出車の色々の袖口は春秋の花紅葉を一度に並べて見る心地であった。釣殿の簀子で多くの歌が詠まれた中から太政大臣の一首が引かれる。院の第一の御子は右中弁平棟範の女で四条院に兵衛の内侍として候っていた人の御腹で、当代が生まれられた後は押し消たれておられたが、建長四年正月八日に院の御前で御冠され、三品を賜わって中務の卿宗尊親王と申した。御年十一である。同じ二月十九日に将軍の宣旨を賜わって都を出られ、院も忍んで粟田口のほとりに御車を立てて御覧じ送られた。建長五年正月十三日、御門は十一で御元服され、御諱を久仁と申す。神無月の十日頃、鳥羽殿におられる院のもとへ朝覲の行幸があり、女院も拝し奉られるのを太政大臣が見て、喜びの涙が人わろいほどであった。池には唐のよそいをした御船二艘が漕ぎ寄せられ、御遊びが響き渡る。その頃の熊野御幸では、車は立てぬ事であったのに大宮院ばかりが出車もなくただ一両で見送られ、弁の内侍が歌を詠んだ。御幸が本宮に着かれて、それから新宮へ川舟で渡される折、川の面が所せきまで舟の続くのを御覧じなれぬさまに思われて、院も歌を詠まれた。
 院は後嵯峨院で、この頃はまだ三十にも満たれない。太政大臣は西園寺実氏で、大宮院の御父、院の御舅にあたる。大宮院は実氏の御女で、御門すなわち後深草院の御母である。皇后宮は院の御姉で、後に仙華門院と申した。摂政は岡屋の大臣兼経、左大臣は兼平、内大臣は実基である。院の若宮で円満院の法親王の弟子となられたのは公宗の中将といった人の女の御腹で、御法名を円助と申す。宗尊親王は右中弁平棟範の主の女で四条院に兵衛の内侍として候っていた人の御腹、院の第一の御子にあたり、後に将軍として東へ下られた。その母は宰相の三位と申す。大納言の典侍は為家の民部卿の娘、按察の典侍は隆衡の女である。弁の内侍と少将の内侍は信実の朝臣の女で、姉妹にあたる。三条の大納言公親は院に近く仕えた人である。
 宝治三年二月一日の夜、閑院殿の二条面の対から火が出て内裏が焼け、御門は剣璽ばかりを取り具して門を急ぎ出られた。夜が明け果てて後、前の太政大臣実氏の冷泉富の小路へ行幸があって、しばらくそこが内裏となる。
 院の御所とはい渡るほどの近さであったから、御宿直の人々なども日ごろより多く参り集まり、御旅の雲居ながらかえって人目に立つほどであった。北の対のつまの紅梅がたいそう面白く咲いて院の御前から見渡されるので、雅家の宰相の中将に命じて、いと艶になよびた薄様に書かせられ、その梅に結びつけさせられた御製である。
 御返しは弁の内侍が承って申し上げるはずと聞こえたが、なおざりであるということで、今出川の大臣から申されたとかいう。語り手はそれも忘れてしまったのが口惜しい、老いはかくうきものであると言い添えて、次の火災の記事へ移る。

 初句「色も香も」は梅を讃える定型の言い方で、視覚と嗅覚を並べて花のすべてを言う。第二句「重ねてにほへ」の「重ねて」はいっそう、かさねがさねの意で、「にほへ」は命令形。花に向かって命じる形を取る。第三句「梅の花」は呼びかけの体言で、ここで一度切れる。下の句が命じる理由を述べ、第四句「九重になる」の「九重」は宮中を指す語で、火災によって仮の内裏となったこの家がにわかに九重となったことをいう。同時に、花が幾重にも咲き重なる意が「重ねて」と響き合い、数の「九」が「重ねて」を承ける形になっている。結句「宿のしるしに」の「しるし」は証、あかしの意で、花の見事さをそのまま仮内裏の栄えのしるしとせよという。内裏を焼かれた直後の歌でありながら、嘆きを言わず、目の前の紅梅に命じることで場を寿ぐ方へ転じており、巻五で少将内侍が雪の問いを千代の道の賀に転じた「九重のうち野の雪に跡つけて遙に千代の道を見るかな」と同じく、「九重」の語を軸に凶事を賀意へ引き取る運びになっている。

九重:幾重にも重なること。宮中をいう
にほふ:美しく色づく、香る
しるし:あかし、証拠
薄様:薄手の鳥の子紙。消息などに用いる
作者
後嵯峨院
出典
増鏡
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