古典和歌stream

栄ゆべき程ぞ久しき伏見山
おひそふ松の枝をつらねて

歌の意味
栄えるはずの年月こそ久しい。伏見山に生い添う松の枝を連ねて。
鑑賞
第十二 老のなみ

 建治三年正月三日、内の上が御冠をされた。十一におなりで、御諱を世仁と申す。引き入れは関白太政大臣兼平、理髪は頭の中将基顕、御総角は大炊御門の大納言信嗣が仕えられた。二十二日には亀山殿へ朝覲の行幸があり、御前の大井河に龍頭鷁首が浮かべられ、夜に入って鵜飼どもが召された。三月二十六日には石清水、四月十九日には賀茂へ行幸がある。春宮の御元服は八月と聞こえたのが、奈良の興福寺の火の事により延びて十二月十九日に行われた。十六日にまず内裏へ行啓があり、引き入れは左大臣師忠、理髪は春宮の権大夫具守が勤められる。御諱を煕仁と申した。新院は尽きせず、皇后宮がおられたならばとばかり、しおたれがちで思し忘れる世もない。これ彼参らせるがなずらえになる人もない。新陽明門院も初めは御覚えがあるようであったが、次第にかれがれとなり御一人寝がちである。弘安元年十月ばかり、また二条内裏に火が出ていみじうあさましい。万里小路殿はありし火の後に造られて今年八月に御わたましがあり新院が住まわれていたが、内裏が焼けたのでこの院がまた内裏となった。その頃、大宮院がいと久しく悩まれるので、本院も新院も常に渡られ夜なども御座す。異御腹の法親王
姫宮達も絶えず御訪いに詣でられる中に、故院の位の御時に勾当の内侍といった人の腹に生まれられた姫宮、後の五条院を、新院があながちに御心にかけてうかがい申されるうちに、この御悩みの頃、思いの外にあさましと思し歎かれる事となり、姫宮まで生まれられた。限りなく人目をつつむ事なので、誰が御腹という事もなく、院の御乳母の按察の二位が里に渡し奉られた。新院は御心のあくがるるままに乱りがわしいまでたわれられ、腹々の宮達が数知らず生まれられる。十三の御年から宮は生まれ始められ、年々に多くなられるばかりであった。故皇后宮の御雑仕で貫川といった者、北白河殿の女院に候った下野で後に廊の御方と呼ばれた者、大宮の女院に候った讚岐、帥の中納言為経の娘の帥の典侍殿など、御腹はさまざまである。昔の嵯峨天皇が八十余人まで御子を持たれたと承り伝えるのにもほとほと劣られまいという。内には中々女御
更衣も候われず、いとさうざうしい雲の上である。三月の末つ方、持明院殿の花盛りに新院が渡られた。鞠のかかりを御覧じようとであったので、御前の花は木末も庭も盛りである上に外の桜まで召して散らし添えられ、深く積もった花の白雪は跡もつけがたく見える。寝殿の母屋に御座を対座に設けられたのを、新院は故院の御時に定め置かれた上は今更にとて長押の下へ引き下げられ、本院は出られて、朱雀院の行幸には主の座をこそ直されたのに今日の御幸に御座をおろされるのはいと異様であると申される程、いと面白い。春宮もおいでになって、かかりの下に皆立ち出られる。暮れかかる程に風が少し吹いて花も乱りがわしく散りまがう中、御鞠が数多く上がり、人々の心地はいと艶であった。六条殿の長講堂も焼けたのを造られて、その頃御わたましがある。卯月の初めつ方から院の上が渡られ、御壺を分かたせて前栽合わせもあった。例の五月の供花、九月の供花には新院さえ渡られるので、いよいよ女房の袖口に心ことに用意を加えられる。御花が果てれば両院は一つ御車で伏見殿へ御幸される。秋山の気色を御覧じさせようとであった。野山の気色が色づき渡る中、伏見山、田の面に続く宇治の川浪が遙々と見渡される程はいと艶である。鷹司殿の大殿も参られるはずと聞こえたのが御物忌みとて止まられたので、五葉の枝につけて歌を奏せられ、御返しがあった。又の日は伏見の津に出られて鵜舟を御覧じ、白拍子を御船に召し入れて歌をうたわせられる。両院の家司どもが我劣らじと厳めしい事どもを調じて参らせた中に、楊桃の二位兼行が桧破子どもを心ばせありて仕えたのに、雲雀という小鳥を荻の枝につけていた。源氏の松風の巻を思ったのであろうか。本院が為兼の朝臣を召してあれはいかが見るかと仰せられると、いと心得侍らずと申した。誠に定家の中納言入道が書いた源氏の本には荻とは見えないと承ったという。この御代にも勅撰の沙汰が一昨年ばかりからあり、為氏の大納言が撰ばれて、この十二月に奏せられた。続拾遺集と申す。弘安二年五月ばかり、新陽明門院の御気色があって若宮が生まれられ、八月には御歩きぞめとて万里小路殿に渡られた。この宮も親王の宣旨があったが、明くる年九月にまた隠れられて、いと口惜しい御事であった。弘安四年の夏頃、後嵯峨院の姫宮が隠れられた。その頃、蒙古が起こるとて世の中が騒ぎ立つ。山々寺々の御祈りは数知らず、伊勢の勅使には経任の大納言が参る。新院も八幡へ御幸あって真読の大般若を供養され、大神宮への御願に、我が御代にこうした乱れが出て来て誠にこの日本が損なわれるならば我が命を召すべき由を御手ずから書かれたのを、大宮院がいとあさましき事と諌め申された。然れども七月一日、おびただしい大風が吹いて異国の舟六万艘が皆吹き破られ、水に沈み、残ったものも泣く泣く本国へ帰った。石清水の社で大般若供養の説法がいみじかった刻限に、晴れた空に黒雲が一むら俄に見えてたなびき、その中から白い羽ではいだ大きな鏑矢が西をさして飛び出て鳴る音がおびただしかったという。なお我が国に神のおわします事の験であった。さて為氏の大納言が伊勢の勅使として上る道より歌を申し送った。弘安六年正月六日、日吉の社の訴訟に勅裁がないとて御輿が都へ入り、御門は腰輿で近衛殿へ行幸される。この御門はねびられるままにいと賢く御才も勝れられるので、なべて世の人もめでたい事に思い申す。はかばかしい女御
后も候われずいと徒然であったところ、新陽明門院の御方に候う堀川の大納言の御女を忍び忍び御覧じて、弘安八年二月ばかりに若宮が生まれられた。今年、北山の准后が九十に満ちられるので、大宮院が御賀の事を思い急がれる。世の大事として天の下がかしがましく響き合った。御賀は二月三十日頃である。本院
新院
東二条院
遊義門院も皆かねてより北山に渡られ、新陽明門院も新院の一つ御車におられる。二十九日の夜にまず行幸があり、その後に春宮の行啓がある。その日になれば寝殿の東面の母屋
廂まで取り払って釈迦如来の絵像を掛け奉り、道場の飾りは誠の浄土の荘厳もかくこそと清らを尽くされた。御経の箱二合に金泥の寿命経九十巻
法華経が入れられる。講師は法印憲実、読師は僧正守助であった。楽人
舞人が万歳楽
賀殿
陵王、地久
延喜楽
納曾利などを奏し舞う。又の日は三月の一日である。内
春宮
両院に御膳が参り、その後御遊びが始まって、内の上は御笛、春宮は御琵琶を奏される。御遊びが果てて和歌の披講が始まる。為道の朝臣が懐紙を文台の上に置き、その外の殿上人どもの歌は信輔が一度に置いた。内の上の御歌は殿が書かれ、新院の御製は内大臣、春宮のは左大将に書かせられる。製に応ずと上文字を載せられたのも内宴の例とかやという。次々に例は多いが煩わしくて漏らしたと語り手はいう。その後、東向の鞠のかかりのある方へ渡られ、御方々の女房が色々の衣を昨日に引き替えて押し出される。後鳥羽院建仁の例とて新院が御上鞠を三足ばかり立てられた。明くる日、午の時ばかり、寝殿より西園寺まで筵道を敷いて両院
春宮が堂々を拝まれる。妙音堂に御参りがあると、遅い桜が一本ほころび初めて今日の御幸を待ち顔である。採桑老
蘇合
白柱
千秋楽などが奏され、帰られてもまた昨日の花の蔭で舞を御覧じ、それからやがて御船に奉って押し出される。中島に御舟を差し止めて見れば、旧苔の年ふりた松の枝が差し交わす岩のたたずまいがいと暗がり、池の水は心のどかに見えて、仙人の洞もかくやと覚えた。二千里の外の心地こそすれなど仰せられて、連歌が交わされる。暮れ果てる程に釣殿へ御舟を寄せて降りられ、春宮は今夜帰られるので御贈り物に和琴一つを奉られた。准后にも恵果和尚の三衣が参らせられる。いずれも大宮院の御沙汰である。何となく過ぎゆく程に弘安十年になった。この御門は位に即かれて十三年ばかりになる。本院が待ち遠に思われるだろうと、例の東より奏する事があるべしという。新院の御方様には心細く聞こし召し悩まれる。去年の春に御乳母の按察の二位殿が失せたので、一めぐりの仏事に亀山殿におられて厳めしく八講を行われた日、雪がいたく降ったので、九条の三位隆博が桧扇のつまを折って女房の中に歌を申し、院が御覧じて返しを仰せられた。万事あかず思われる程であったが、その年の十月に御門は降り居られる。もとの上は二十一におなりであった。春宮が位に即かれたので、天の下は本院に推し移る。世の中は押し別れて人の心どももこうした際にあらわれた。
 内の上は後宇多天皇で、亀山院の御子、御諱を世仁と申す。本院は後深草院、新院は亀山院、大宮院は西園寺実氏の御女で両院の御母にあたる。春宮は本院の御子の煕仁親王で、後の伏見院である。故院は後嵯峨院、皇后宮は新院の后であられた方。北山の准后はこの巻で九十の御賀を受けられる方で、鷲の尾の大納言隆衡の女、安元の御賀に青海波を舞った隆房の大納言の孫にあたる。太政大臣実氏の北の方であり、大宮院
東二条院の御母、両院の御祖母である。春宮の大夫実兼は太政大臣公相の御子で実氏の御孫にあたる。鷹司殿の大殿兼平は関白太政大臣を務めた人で、後に照念院殿と申した。為氏の大納言は歌の家の人でこの巻の続拾遺集を撰ばれた。為兼の朝臣は為氏の弟の兵衛督為教の子、為道は為氏の孫で為世の太郎である。九条の三位隆博、按察の二位は新院の御乳母、新陽明門院は近衛殿の姫君で新院の女御、今出川院は西園寺の中宮であられた方である。
 弘安元年九月、供花が果てて、両院は一つ御車で伏見殿へ御幸された。秋山の気色を御覧じさせようとであった。上達部
殿上人がかなたこなた押し合わせ、色々の狩衣姿に菊紅葉を濃く交ぜて群れる様は見所が多い。
 野山の気色が色づき渡る中、伏見山、田の面に続く宇治の川浪が遙々と見渡される程はいと艶で、若い人々などは身にしむばかりに思っていた。鷹司殿の大殿も参られるはずと聞こえたのが、御物忌みとて止まられた。
 鷹司殿の大殿兼平が五葉の枝につけて「伏見山幾万代も枝添へてさかへん松の末ぞ久しき」と奏せられたのに対する御返しである。
 原文には詠み手を記す語がなく、この日おいでになっていた両院のいずれかの御製にあたる。両院は一つ御車で伏見殿へ渡られていた。
 又の日は伏見の津に出られて鵜舟を御覧じ、白拍子を御船に召し入れて歌をうたわせられる。二、三日おいでになるので、両院の家司どもが我劣らじと厳めしい事どもを調じて参らせた。

 初句「栄ゆべき」は栄えるはずのの意で、贈歌の「さかへん」を言い換えて受ける。第二句「程ぞ久しき」の「程」は年月の意、「ぞ」は強めの係助詞で結びは「久しき」の連体形。贈歌が結句に据えた「久しき」を、返しは第二句へ繰り上げており、同じ語を置く位置を変えることで応じている。第三句「伏見山」も贈歌の初句をそのまま受け、上の句だけで贈歌の三つの語を取り込んでいる。下の句「おひそふ松の枝をつらねて」の「おひそふ」は生い添うで、贈歌の「枝添へて」の「添ふ」を受け直したもの。「枝をつらねて」は枝が連なることで、贈歌の枝を一本の五葉から連なる枝へ広げている。「て」で言いさして終わり、そうしてという余情を残す。贈歌が枝を添えるという行為を述べたのに対し、返しはその枝が連なってゆく先を言っており、一枝から連枝へという広がりが、贈った者の心を受けて場に迎え入れる形になっている。

程:年月、時のほど
おひそふ:生い添う。伸びて加わる
つらぬ:連ねる、並べる
家司:院や貴族の家の事務をつかさどる職員
出典
増鏡
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