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世の中の憂さには神もなきものを
何祈るらん心づくしに

歌の意味
世の中のつらさに対しては神も力の及ばぬものを、何を祈るのか、そのように心を尽くして。
鑑賞
巻第八 緒環

 平家は九州で都を定め、内裏を造ろうと評議を重ねてはいたが、とても実行には至らなかった。天皇はこのころ、岩戸の少卿大蔵種直の家を仮の御所としている。人々の家も野中田中に散在する始末であるから、さながら大和の十市の里にいるような感じである。天皇の内裏となった種直の家は木立の深い山の中にあった。丸木で造った山小屋の風情がなかなか風雅であるという者もいたが、これは斉明天皇が三韓交渉の折に筑紫の朝倉へ進んだとき造られた木の丸殿になぞらえたものであった。
 天皇はここから宇佐神宮へ行幸になる。大宮司公通の家が皇居となり、社殿が公卿殿上人の宿となった。廻廊には五位六位の官人がつめ、庭には四国九州の武士たちが鎧兜をつけ、弓矢を携えて雲霞のごとく並んでいる。古びた丹の玉垣までが再び飾られたように輝いて見えた。一行は七日間参籠した。
 満願の暁である。宝殿の前で朝敵退散、平家興隆を祈り続けていた宗盛は、夜が明ければ満願と知って気力を持ち直して祈っていた。夜が明けそめて社殿の中も薄明るくなったとき、宝殿の扉が音もなく開き、尊く気高い声が奥から聞こえた。それがこの一首である。
 宗盛ははっと目覚めて姿勢を正した。奥からの声は一度きりである。しきりに胸騒ぎがし、不吉な影が身うちをよぎった。お告げの意味を考えて、たちまち暗然とした表情になる。この世のありさまには神の力も及ばぬというのである。

 神が「神もなきものを」と言う。神託の歌でありながら、神自身の無力を告げている。
 「心づくしに」は心を尽くして、思いのかぎりを尽くしての意で、宗盛の七日間の参籠をそのまま指している。その必死さを、無駄だと言い切った。願いを聞き届けるでもなく、諭すでもなく、ただ祈っても仕方がないと述べる。
 平家物語の神託歌はこれで四首目にあたる。巻第一「鹿ヶ谷」の「桜花かもの川風うらむなよ」は諭しであり、巻第二「卒都婆流し」の「千早ぶる神に祈りの」は約束であり、巻第七「主上都落」の「いかにせん藤の末葉の」は指示であった。この一首だけが、祈っても無駄だと告げている。神の言葉が最も冷たくなったところで、平家の運命はすでに決まっている。
 宗盛はこのお告げを誰にも漏らさなかった。参籠がつつがなく終わり、喜ぶ一行と共に太宰府へ帰る宗盛の顔には、寥々たる微笑みがたたえられていたと物語は書いている。

憂さ……つらさ。憂鬱。
神もなきものを……神も無力であるのに。
何祈るらん……何を祈るのだろうか。
心づくし……心を尽くすこと。あれこれ思い悩むこと。
宇佐神宮……豊前国の八幡宮。皇室の宗廟とされた。
大宮司公通……宇佐神宮の神職の長。
参籠……社寺にこもって祈願すること。
満願……願をかけた日数が満ちること。
木の丸殿……丸木のまま造った仮の御殿。
十市の里……大和の地名。粗末な住まいの喩え。
出典
平家物語
その他の歌