ぬしもなき宿に枯れたる松見れば
千代すぎにけるここちこそすれ
- 歌の意味
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あるじもいない僧坊に枯れている松を見ると、千年もの時が過ぎてしまったような気持ちがすることだ。
- 鑑賞
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25 千代の松
比叡山に明覚法師という人が籠もって修行をしていたとき、徳を積んだ高僧がすでに亡くなったあとの僧坊に、松の木が枯れているのを見て詠んだのがこの歌である。これを詠むと、その僧坊に泊まっていた弟子たちも、しみじみとした思いにとらわれた。この明覚は、としこの兄であった。
明覚法師は比叡山で修行していた僧である。地の文はその素性を、としこの兄であると記して結んでいる。としこは右馬允藤原千兼の妻で、三段では亭子院の御賀の支度を任され、九段では弔いの歌を詠み、十三段ではその死が語られる女性である。
場面は比叡山の、亡くなった高僧の僧坊である。そこに枯れた松が立っている。
詠出の直接の契機は、その枯れた松を目にしたことである。あるじを失った僧坊という場が歌を生んでいる。
歌を聞いた弟子たちもしみじみと思ったと地の文は記す。段はその一文と、明覚がとしこの兄であるという説明で閉じられる。
「ぬしもなき宿」で、あるじを失った僧坊をまず置く。「宿」は住まいのことで、ここでは僧坊を指す。
その宿に枯れているのが松である。松は千年の齢を保つとされ、長寿の象徴として詠まれてきた。その松が枯れているという取り合わせに、この歌の眼目がある。
「千代すぎにける」は、千年が過ぎてしまった、の意である。松の齢が千年なら、その松が枯れるには千年かかるはずで、あるじの亡くなってからまだ日が浅いにもかかわらず、千年が過ぎたように感じられる、という筋になる。
結句「ここちこそすれ」は「こそ」の係りが「すれ」で結ばれる形で、そういう気持ちがすることだ、と押さえる。実際の時間の短さと、体感される時間の長さとの隔たりが、この結びに置かれている。
比叡(ひえ)の山——比叡山。天台宗の総本山延暦寺がある。
おこなふ(四段動詞)——仏道の修行をする。
坊(ばう)——僧の住まい。僧坊。
ぬし——あるじ。持ち主。
宿(やど)——住まい。家。
千代(ちよ)——千年。非常に長い年月。
ここち——気持ち。感じ。
こそ〜すれ——係り結び。強調を表す。
- 出典
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大和物語
- その他の歌
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