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わすらるなわすれやしぬる春がすみ
けさ立ちながらちぎりつること

歌の意味
忘れないでください。私も忘れはしません。春霞の立つ今朝、立ったままで交わした約束のことを。
鑑賞
64 春がすみ

 平中が、心にかなう女を正妻とともに住まわせていたが、正妻はこれを憎らしく思って罵り、この女を追い出してしまった。正妻に従うほかなかったのだろうか、平中は愛しく思いながらも留めることができなかった。正妻の口調が激しいので近くに寄ることさえできず、四尺ほどの屏風に寄りかかって隠れるように立ち、その女に、男女の仲のこのように思うにまかせないことよ、見知らぬ地に行っても忘れずに便りをください、自分もそうしようと思う、と言った。女は包みに身の回りの物をしまい、牛車を呼んで待っているところであった。平中はしみじみと悲しく思った。そのうちに女は出て行ってしまった。しばらくして、詠んで送ってきたのがこの歌である。
 平中は平定文のこと。色好みで知られた人物で、四十六段にも登場する。追い出された女と正妻については、地の文に名の記載がない。
 場面は平中の家である。女が牛車を待ち、荷をまとめて出て行こうとしている朝にあたる。歌に春霞が詠まれていることから、春のことと知れる。
 詠出の直接の契機は、その別れぎわの約束である。歌は女が去ってしばらくしてから送られてきた。
 段はこの一首で終わり、平中の返しも後日のことも語られない。

 「わすらるな」は、忘れられるな、忘れないでください、という禁止の言い方である。相手に向けて呼びかける形から始まる。
 「わすれやしぬる」は、忘れたりするだろうか、いや忘れない、という反語である。相手に頼んだうえで、自分の側も忘れないと続けている。
 「春がすみ」は「立つ」にかかる枕詞として働き、次の「けさ立ちながら」を導く。同時に、別れの朝の景色そのものにもなっている。
 「けさ立ちながら」の「立ち」に、霞が立つことと、その場に立ったままであることとが重なる。地の文が、平中は屏風に寄りかかって立ったまま話したと記しており、その姿がこの一語に写されている。散文で描かれた場面が、そのまま歌の言葉に受け取られている一首である。

平中(へいちゅう)——平定文のこと。色好みで知られた。
本の妻(もとのめ)——正妻。
ののしる(四段動詞)——大声で言い立てる。罵る。
屏風(びゃうぶ)——室内を仕切る調度。
四尺——約一
二メートル。屏風の高さをいう。
わすらるな——忘れないでください。禁止を表す。
春がすみ——春に立つ霞。「立つ」にかかる枕詞。
ちぎる(四段動詞)——約束する。
出典
大和物語
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