いつはとはわかねどたえて秋の夜ぞ
身のわびしさは知りまさりける
- 歌の意味
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いつと時期を分けるわけではないが、それでも秋の夜こそ、わが身の侘しさが身にしみて分かるのだった。
- 鑑賞
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144 いまはかぎりの門出
この在次の君であるが、父である在中将が東国に下ったことがあるせいだろうか、その息子である彼もよその国への旅をときどき行っていた。情緒を知る者であるから、よその国の趣深くしみじみとするような場所では、歌を詠んで書き付けたりしていた。小総の駅は海辺だったので、それを詠んで書き置くには「わたつみと人や見るらむ逢ふことのなみだをふさに泣きつめつれば」とあった。また近くの箕輪の里で「いつはとはわかねどたえて秋の夜ぞ身のわびしさは知りまさりける」と詠んだりした。やがて国々を歩き回って甲斐の国に来て住んでいるとき、病気で死ぬ間際に「かりそめのゆきかひ路とぞ思ひしをいまはかぎりの門出なりける」と詠んで亡くなったという。この在次の君と一緒に居たことがある知人が、三河から京にのぼるときに宿泊地でこれらの歌を見つけて、筆跡から彼のものだと知ってしみじみとした感慨に囚われたという。以上が段の全体である。
在次の君は在原滋春で、在中将すなわち在原業平の子である。前の百四十三段にも登場する。小総の駅と箕輪の里はいずれも東国の地名で、甲斐の国は現在の山梨県にあたる。三河の国は現在の愛知県東部である。
場面は箕輪の里である。小総の駅の近くにあたる。歌に秋の夜が詠まれていることから、秋のことと知れる。
詠出の直接の契機は地の文に記されない。示されているのは、この地で詠んだということだけである。
この歌のあと、段は甲斐の国での臨終の歌へと続いていく。
「いつはとはわかねど」は、いつと時期を分けるわけではないが、の意である。特定の季節に限ったことではない、とまず断る。
「たえて」は、下の語と呼応して、まったく、の意になる。ここでは強めとして働く。
「秋の夜ぞ」で、それでも秋の夜だと限定する。「ぞ」の係りが結句の「ける」で結ばれる。
結句の「身のわびしさは知りまさりける」の「みのわ」に、地名の箕輪が詠み込まれている。前の歌と同じく物の名を隠す技法によっている。侘しさはいつも同じはずだが秋の夜にはひとしお分かる、という筋を、地名を織り込みながら述べた一首である。
箕輪(みのわ)の里——東国の地名。
いつは——いつと。時期を指す。
わく(下二段動詞)——分ける。区別する。
たえて(副詞)——まったく。強めとして働く。
秋の夜——秋の夜。
わびしさ——侘しさ。心細さ。地名「箕輪」を隠す。
知りまさる(四段動詞)——いっそう深く知る。
ぞ〜ける——係り結び。強調を表す。
- 出典
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大和物語
- その他の歌
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