いのちだにこころに叶ふものならば
なにか別れの悲しからまし
- 歌の意味
-
命さえ思いどおりになるものならば、どうして別れが悲しかろうか。
- 鑑賞
-
145 浜千鳥
宇多法皇が川尻に滞在したとき、しろという名の遊女がいた。人をして呼び寄せればやってきて控えている。貴族や皇族が沢山いるので下の席に遠く控えていると、なぜそんなに遠くに控えているのか、歌で教えよ、と命じられたので「浜千鳥飛びゆくかぎりありければ雲たつ山をあはとこそ見れ」と詠んだところ、法皇はこの歌を褒め称えて褒美を授けたのだった。「いのちだにこころに叶ふものならばなにか別れの悲しからまし」という歌も、このしろが詠んだものである。以上が段の全体である。
宇多法皇は出家した後の宇多天皇で、一段と二段にも亭子の帝として登場する。川尻は淀川の河口付近で、遊女の集まる地として知られた。しろはそこにいた遊女である。
場面の時期や場所は明示されない。示されているのは、この歌も同じしろが詠んだものである、ということだけである。
詠出の直接の契機は地の文に記されない。
段はこの一首で閉じられる。即興の歌に続けて、心情を述べた歌を並べる形になっており、百二十六段から百二十八段の檜垣の御と同じ構成にあたる。この歌は古今集に収められている。
「いのちだにこころに叶ふものならば」は、命さえ思いどおりになるものならば、という仮定である。「だに」が、せめてそれだけでも、と譲る形を作り、「ものならば〜まし」で事実に反する仮定になる。
命が思いどおりになれば、また逢うこともできる。その前提が下の句へつながる。
結句の「なにか別れの悲しからまし」は反語で、どうして悲しかろうか、いや悲しくない、と言う。
実際には命は思いどおりにならないのだから、別れは悲しい。仮定を立ててそれを反語で結ぶことで、言われていない側の事実が浮かび上がる作りになっている。即興に長けた者が、心情の歌にも巧みであったことを示す一首として置かれている。
いのち——命。
だに——せめて〜だけでも。
こころに叶ふ——思いどおりになる。
ものならば〜まし——もし〜であったなら〜だろうに。事実に反する仮定。
なにか〜まし——どうして〜だろうか、いや〜ない。反語を表す。
別れ——別れ。
- 出典
-
大和物語
- その他の歌
-