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鳴海がた和歌のうら風へだてずば
おなじこゝろに神もうくらむ

歌の意味
鳴海潟と和歌の浦と、その浦風を隔てずにおられるならば、同じ心でこの神も歌を受け入れてくださるだろう。
鑑賞
第六段 尾張路―一の宮より鳴海潟まで

 『十六夜日記』の旅は美濃路を抜けて尾張路に入る。洲俣川を浮橋で渡ったのち、また一の宮という社を過ぎるところで一首を詠む。二十日、尾張国の折戸という駅を行き、回り道にならない道であったので熱田の宮へ参って、硯を取り出し、書きつけて四首を奉る。鳴海潟を過ぎるときは、ちょうど潮の引いているころなので、さしさわりなく干潟を行く。折しも浜千鳥がたいそう多く先に立って行くのも、道案内をしている顔つきのように思われて一首を詠む。都鳥という鳥は隅田川のあたりにこそいると聞いていたけれども、嘴と脚とが赤いその鳥は、この浦にもいたのだった。それを見てまた一首を詠み、尾張路の記事はここで結ばれる。

 阿仏尼は藤原為家の側室で、為相
為守らの母。播磨国細川荘の相続をめぐる訴えのため、京から鎌倉へ下る途中である。同行するのは道の案内役の山伏、阿闍梨の君と供の人々。この段の七首もすべて阿仏尼ひとりの詠であり、贈答の相手はない。うち四首は熱田の宮に硯で書きつけて奉った奉納の歌で、残る三首は道すがらの独詠である。

 弘安二年(一二七九)十月二十日、尾張国の熱田の宮の神前。

 熱田の宮に硯を取り出して書きつけ、奉った四首のうちの二首目である。

 神前に奉った歌であるから返しはない。歌の道によって訴えを申し立てるというこの構えは、のちに鎌倉から都の人々と歌を贈答し続ける東日記の記事へも通じていく。

 尾張の潟と紀伊の浦とを、和歌の道という一つの心で結んだ一首。初句「鳴海がた」はいま目の前にある土地、第二句「和歌のうら風」は遠く隔たった紀伊の歌枕で、和歌の浦は歌の道そのものを言う語としても用いられる。「潟」「浦」「風」は海辺の縁語として連なり、二つの土地が同じ景のうちに並べられる。第三句「へだてずば」は打ち消しの「ず」に仮定の「ば」が付いた形で、隔てを置かないならば、の意。第四句「おなじこゝろに」は、両者を分け隔てない心をいい、神の側の心と、詠み手の側の歌の心とを重ねる。結句「神もうくらむ」の「うく」は受け入れるの意、「らむ」は現在推量で、和歌の神が歌を受け取るのと同じように、この熱田の神も受け取ってくださるだろう、と言う。別れの贈答歌の「和歌の浦にかきとゞめたるもしほぐさこれをむかしのかたみとも見よ」でも和歌の浦は歌の道の意で使われており、都で子に託した語が、旅先の神前でもう一度用いられている。

鳴海がた(鳴海潟):尾張国の干潟。歌枕。
和歌の浦(わかのうら):紀伊国の歌枕。和歌の道の意を掛けて用いる。
うら風(浦風):海辺を吹く風。
作者
阿仏尼
出典
十六夜日記
その他の歌