雲かゝるさやのなか山こえぬとは
みやこに吿げよありあけの月
- 歌の意味
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雲のかかる小夜の中山を越えてしまったとは、都に告げてくれ、有明の月よ。
- 鑑賞
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第八段 遠江路―高師山より菊川まで
『十六夜日記』の旅は三河路を抜けて遠江路に入り、この段は二十二日から二十四日までの三日にわたる。二十二日の暁、夜も深いうちに有明の月の光の中を出て行く。いつよりも物悲しい。供の人が、有明の月までが笠を着ていると言うのを聞いて、また一首を詠む。高師の山も越えた。海の見えるあたりはたいそう趣がある。浦風が荒れて松の響きがすさまじく、波はとても高い。真っ白な洲崎に黒い鳥が群れているのは、鵜という鳥であった。浜名の橋から見渡すと、かもめという鳥がたいそう多く飛びちがい、水の底へも入り、岩の上にもいる。今宵は引馬の宿という所に泊まる。ここの一帯の名は浜松といった。親しいといったほどの人々も住んでいた所である。かつて住んでいた人の面影もさまざまに思い出され、またこうしてめぐり逢って見ることのできた命のほども、かえすがえすしみじみと思われる。二十三日、天竜の渡りという舟に乗ると、西行の昔も思い出されてたいそう心細い。組み合わせた舟がただ一つで、多くの人の行き来に、竿を差し返す暇もない。今宵は遠江の見付の国府という所に泊まる。里は荒れて物恐ろしい。傍に水の井がある。二十四日、昼になって小夜の中山を越える。事任とかいう社のあたりは紅葉が真っ盛りで趣がある。山陰なので嵐も及ばないのであろう。深く入るにつれて、あちこちの峰続きがほかの山とは似ておらず、心細くしみじみとする。ふもとの里の、菊川という所に泊まる。暁に起きて見ると、月も出ていた。川音はたいそうすさまじい。
阿仏尼は藤原為家の側室で、為相
為守らの母。播磨国細川荘の相続をめぐる訴えのため、京から鎌倉へ下る途中である。同行するのは道の案内役の山伏、阿闍梨の君と供の人々で、二十二日の暁の歌は、その供の人のことばを受けて詠まれている。この段の十一首はすべて阿仏尼ひとりの詠であり、贈答の相手はない。浜松の歌には、かつてこの地に親しい人々が住んでいたことが詠まれ、地の文には、その当時に見知った人の子や孫を呼び出して応対したと記される。
弘安二年(一二七九)十月二十五日の暁、遠江国の菊川の宿。小夜の中山を越えた翌朝にあたる。
暁に起きて見ると、月も出ていた。その有明の月に向かって詠んだ一首である。
独詠で返しはない。地の文は「川音いとすごし」と続けてもう一首を挙げ、遠江路はここで閉じられて、二十五日の大井川から駿河路に入る。
空にある月を、都への使いに立てた一首。初句「雲かゝる」は月に雲のかかるさまであると同時に、越えてきた峠の高さをも言う語で、地の文の峰続きの印象を一語で受けている。第二句「さやのなか山」は直前の「こえくらすふもとの里のゆふやみにまつかぜおくるさやの中山」と同じ結句の語を、こちらでは第二句に据え直したもので、二首が同じ山をはさんで夕と暁とに向かい合う形になる。第三句「こえぬとは」の「ぬ」は完了の助動詞で、越えてしまったという事実を「とは」で引用の形にくくり、下の「吿げよ」の内容とする。第四句「みやこに吿げよ」は命令形で、月に直接ものを言う。第五句「ありあけの月」は体言止めで、呼びかけの相手を最後に置く。この有明の月は、二十二日の暁に「住みわびて月の都をいでしかどうき身はなれぬありあけのかげ」「たび人のおなじみちにや出でつらむ笠うちきたるありあけの月」と続けて詠まれた月と同じもので、身を離れないものとして嘆かれ、道連れと見なされたのちに、ここでは都へことづてを託す相手になる。同じ月に対する扱いが三段階に変わっていく。
ありあけの月:夜が明けてもなお空に残っている月。
さやの中山(小夜の中山):遠江国の峠。歌枕。
- 作者
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阿仏尼
- 出典
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十六夜日記
- その他の歌
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