思ひいづるみやこのことはおほゐ河
いく瀨の石のかずもおよばじ
- 歌の意味
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思い出す都のことがらは、大井河の幾瀬の石の数でも及ぶまい。
- 鑑賞
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第九段 駿河路―大井河より田子の浦まで
『十六夜日記』の旅は遠江路を抜けて駿河路に入り、この段は二十五日から二十七日の田子の浦までにわたる。二十五日、菊川を出て、今日は大井河という河を渡る。水はたいそう浅くなっていて、聞いていたのとは違って苦労がない。河原は幾里とかいうことで、たいそう遠い。水が出たときのありさまが推し量られる。宇津の山を越えるちょうどそのときに、阿闍梨の見知っている山伏に行き逢った。「夢にも人を」などと、昔をわざと真似たような心地がして、たいそう珍しく、おもしろくもしみじみともやさしくも思われる。急ぐ道だというので文も多くは書けず、ただ高貴な所ひとつにお便り申し上げる。今宵は手越という所に泊まる。二十六日、藁科河とかを渡って、息津の浜に出る。昼に立ち寄った所に、粗末な黄楊の小枕がある。たいそう苦しいので横になっていると、硯も見えるので、枕もとの障子に伏したまま書きつけた。暮れかかるころ清見が関を過ぎる。岩を越す波が、白い衣を打ち着せたように見えるのがたいそう趣深い。ほどなく暮れて、そのあたりの海に近い里に泊まった。夜どおし風がたいそう荒れて、波がただ枕の上に立ち騒ぐ。富士の山を見ると煙も立たない。いつの年から絶えたのかと問うが、はっきり答える人さえいない。古今の序の言葉まで思い出される。今宵は波の上という所に宿って、荒れる音にまったく目も合わない。二十七日、明けはなれて後、富士川を渡る。朝の川はたいそう寒く、数えると十五瀬を渡った。今日は日がたいそううららかで、田子の浦に出る。海人たちが漁をするのを見ても、言いたいことがあった。
阿仏尼は藤原為家の側室で、為相
為守らの母。播磨国細川荘の相続をめぐる訴えのため、京から鎌倉へ下る途中である。同行するのは道の案内役の山伏、阿闍梨の君と供の人々で、宇津の山ではその阿闍梨の見知った山伏に行き逢い、その便に託して都へ文を送っている。この段の十一首もすべて阿仏尼ひとりの詠であり、贈答の相手はない。富士の煙をめぐる記事には、昔、父の朝臣に誘われて「いかになるみの浦なれば」などと詠んだころ、遠江の国までは見たことがあると記されている。
弘安二年(一二七九)十月二十五日、遠江の菊川を出て、駿河国の大井河を渡るところ。
水はたいそう浅くなっていて、聞いていたのとは違って渡るのに苦労がなく、河原は幾里とかいうことでたいそう遠い。水が出たときのありさまが推し量られる、その眺めを前にしての一首である。
独詠で返しはない。地の文はこののち、宇津の山を越えるところで山伏に行き逢う場面へ移る。
河原一面の石の数を持ち出して、都への思いの多さを言い切った一首。初句「思ひいづる」は思い出すの意で、旅の途上に浮かぶ都のことがらをまず挙げる。第二句「みやこのことは」の「は」は、下の「およばじ」に対する主題を示し、比べられる側として都を先に置く。第三句「おほゐ河」は河の名であるとともに、その「おほ」に多いの意が響いて、数の多さを言うこの歌の主意と重なる。第四句「いく瀨の石の」は、地の文の「河原いくりとかや、いとはるかなり」という広がりを受けたもので、水の浅い河原に石がむき出しになっている実際の眺めがそのまま数のたとえになっている。結句「かずもおよばじ」の「じ」は打ち消し推量で、及ぶまい、と静かに言い切る。数えきれないものを数えきれないものに比べるという言い方で、思いの量を測ろうとしても測れないことが示される。駿河路はこの一首から始まり、以後、宇津の山、清見が関、富士と、土地ごとに都への思いが繰り返し立ち返っていく。
おほゐ河(大井河):駿河と遠江の境を流れる河。「おほ」に多いの意が響く。
いく瀨(幾瀬):いくつもの瀬。瀬は川の浅く流れの速い所。
あす(褪す):色や水かさが衰える。地の文の「水いとあせて」は水かさが減っての意。
- 作者
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阿仏尼
- 出典
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十六夜日記
- その他の歌
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