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心からなにうらむらむたびごろも
たつ日をだにも知らずがほにて

歌の意味
ご自分の心から出たことなのに、何を恨んでおられるのだろう。旅衣を裁つ、その旅立ちの日さえも知らないふりをしておいて。
鑑賞
第十四段 式乾門院御匣殿との贈答

 式乾門院の御匣殿と申し上げる方は、久我の太政大臣通光の御むすめで、この方も続後撰集から引き続き、二度三度の家々の打聞にも歌が多く入っておられる人なので、御名も隠れもない。今は安嘉門院に御方として仕えておられる。東路を思い立って明日は出発というので、暇乞いのために北白河殿へ参ったけれども、お会いになれなかった。そこで阿仏尼は、その晩だけの出立の支度が慌ただしくて、こうとさえ申し上げられず、急いで出たにつけても御心にかかっていて、と便りを申し上げる。旅寝のまま年までも暮れてしまう心細さ、雪の絶え間なさなどを書き集めて一首を添えた。折り返しその御返事を、便があればと心がけ申し上げていたところ、今日は十二月二十二日、文を待ち受けて、珍しくうれしい。御返事には、まず何事も細かに申し上げたいけれども、今宵は方違えの行幸のことで取りまぎれていて思うほども申し上げられず不本意である、御旅立ちが明日というので御参りのあったその日にちょうど、峯殿の紅葉を見にと若い人々を誘っていたので、後になってそういうことを聞いた、どうしてそうとお尋ねくださらなかったのか、とあって一首が添えられていた。さらに、それから雪になっていくと推し量っての御返事に、もう一首がある。阿仏尼はこのたびはまた、立つ日を知らないとある御歌への返しだけを申し上げる。

 阿仏尼は藤原為家の側室で、為相
為守らの母。鎌倉の月影の谷に住んでいる。御匣殿は式乾門院に仕えた方で、久我の太政大臣通光の娘。続後撰集以来、勅撰集にも家々の打聞にも多く歌の入っている歌人で、いまは安嘉門院に御方として仕えている。式乾門院も安嘉門院も後高倉院の皇女。北白河殿は安嘉門院の御所であり、峯殿は九条道家の山荘である。この段の四首は、都での暇乞いが行き違いに終わったことをめぐるやりとりで、時間をさかのぼる形で贈答が組み立てられている。

 弘安二年(一二七九)十二月二十二日ののち、鎌倉の月影の谷。都から届いた文への返事である。

 御匣殿の「ひとかたに袖やぬれましたび衣たつ日をきかぬうらみなりせば」に答えた一首で、地の文は、このたびはまた、立つ日を知らないとある御歌への返しだけを申し上げる、と記す。

 この一首をもって御匣殿との贈答は終わり、地の文は暁の便に託して姉君と妹の尼上へ文を送る場面へ移る。

 恨みを述べてきた相手に、その恨みの出どころを問い返した返しである。初句「心から」は、自分の心から進んで、の意で、駿河路の「心からおりたつ田子のあまごろもほさぬうらみと人にかたるな」でも「うらみ」と組み合わせて用いられた語である。あちらは自分の恨みを人に言うなと戒めたのに対し、ここでは相手の恨みを問い返しており、同じ組み合わせが向きを変えて使われている。第二句「なにうらむらむ」の「なに」は疑問の副詞、「らむ」は現在推量で、どうして恨んでおられるのだろう、と軽く受け流す。第三句「たびごろも」は贈歌の第三句をそのまま置き直したもので、第四句の「たつ」を導く縁語として働く。第四句「たつ日をだにも」は、贈歌の第四句「たつ日をきかぬ」をほとんどそのまま受けつつ、「だにも」を添えて、日さえも、と程度を強める。結句「知らずがほにて」の「がほ」は、いかにも…らしいようすの意で、知らない顔をしていた、という言い方になる。暇乞いに参ったその日に紅葉を見に出ておられたのはそちらではありませんか、という含みであり、恨み言を正面から否定せず、冗談めかして返すことで角を立てない。地の文が、このたびは立つ日を知らないとある歌の返しだけを申し上げると断っているとおり、二首のうち一首を選んで答えるという、この日記の贈答のしかたがここにも見える。
作者
阿仏尼
出典
十六夜日記
その他の歌