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もとめてもかかる蓮の露をおきて
うき世にまたはかへるものかは

歌の意味
求めてでもあずかりたいこのような蓮の露を捨てて、どうしてつらいこの世にふたたび帰ったりするものか。
鑑賞
34 菩提といふ寺に

 菩提という寺で結縁の八講が行われるというので参詣していたところ、人のもとから、早く帰ってきなさい、たいそう物足りない、と言ってきた。そこで蓮の葉の裏にこの歌を書いて送った。法会はまことに尊く心にしみるので、そのまま寺に留まってしまいたいほどに思われ、待っている人のもどかしさも忘れてしまいそうだ、と結ばれる。
 催しの主体や同行者は本文に記されていない。手紙をよこした「人」が誰であるかも明示されておらず、原文どおり「人」とのみ記されている。
 場所は菩提という寺、時は結縁の八講が営まれている間である。
 寺にいる作者に対して、早く帰れ、物足りない、という便りが届いたことが、この歌が詠まれた直接のきっかけである。返事は紙にではなく、蓮の葉の裏に書きつけて送られた。
 歌を送ったあとも作者は寺にとどまる心を動かさず、法会の尊さに引きとめられて、俗世で待つ人のことすら忘れそうだと述べる。相手からの返しは本文に記されていない。
 この歌は清少納言集に見え、千載和歌集の釈教歌に採られている。

 初句「もとめても」は、求めてまでもの意で、この場に身を置くことがどれほど得がたいかを最初に示す。第二句から第三句の「かかる蓮の露をおきて」は、目の前の蓮の葉に置く露をさすと同時に、法華八講という仏縁そのものを言いあらわしている。「露」は蓮の葉に置く実景でありながら、仏の教えの潤いの比喩でもあり、返事を蓮の葉の裏に書いたという所作と直接つながっている。「おきて」は放置して、捨てておいての意で、露が「置く」という語と同音であることが、実景と行為とを重ねる働きをしている。
 第四句「うき世に」の「うき」は、つらい、いとわしいの意で、寺の内の清らかさと俗世とを対比させる。結句「かへるものかは」の「かは」は反語で、帰れようか、いや帰らないと強く言い切り、早く帰れという相手の求めをそのまま押し返す。歌全体が、催促に対する断りでありながら、断りの理由をそのまま仏縁の尊さの表明に変えており、この段が短い記述のうちに法会の感動と俗縁とのへだたりを収めていることがわかる。

結縁の八講:仏道に縁を結ぶために営む法華経八講。法華経八巻を八座に分けて講じる法会
もとめても:求めてまでも。わざわざ探し求めてでも
かかる:このような
蓮(はちす):はす
おきて:そのままにして。捨て置いて
うき世:つらい世の中。俗世
ものかは:…であろうか、いやそうではない、という反語
さうざうし:物足りない。心さびしい
まうづ:参詣する
作者
清少納言
出典
枕草子
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