薪こることは昨日に尽きにしを
いざ斧の柄はここに朽たさむ
- 歌の意味
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薪を樵ることは昨日で終わってしまったのだから、さあ、斧の柄はこの場で朽たしてしまおう。
- 鑑賞
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308 小原の殿の御母上とこそは
小原の殿の御母上が、普門という寺で法華八講を営まれた。人々はそれを聴聞し、翌日、小野殿に集まって管絃の遊びをし、漢詩を作った。その折に詠まれたのがこの歌である。
小原の殿については、原文は呼称のみを記しており、比定には諸説がある。「殿」は貴人に対する敬称、「御母上」はその母をいう語である。普門は寺の名、小野殿は邸の名である。
時は法華八講の翌日、場所は小野殿である。
前日で八講が終わり、その翌日に人々が集まって遊宴を催したことが、この歌が詠まれた直接の契機である。
本文は、たいそうすばらしいことだと評し、ここでは薪を樵ることなどと言うのだろうか、という言葉を添えて結んでいる。
初句から第二句の「薪こることは昨日に」は、法華八講の薪の行道が前日で終わったことをさす。薪を樵るとは、釈迦が前世に仙人に仕えて薪を樵り水を汲んだという法華経の故事に基づく言い方で、法会の場ではその修行になぞらえて用いられる。第三句「尽きにしを」の「に」は完了、「し」は過去の助動詞の連体形、「を」は逆接の接続助詞で、終わってしまったのに、と下へ折り返す。
第四句「いざ斧の柄は」の「いざ」は、さあと促す感動詞である。斧の柄は、前句の「薪こる」から自然に導かれる縁語であると同時に、山中で仙人の碁を見ているうちに斧の柄が朽ちてしまったという故事を踏まえている。結句「ここに朽たさむ」の「む」は意志をあらわす助動詞で、この場で朽たしてしまおう、と言い切る。
法会が終わって薪を樵る用はなくなった、ならばその斧の柄は、時を忘れて遊ぶこの場で朽ちさせようという運びである。仏事の言葉と遊宴の場とを、斧という一つの道具で継いでおり、修行の終わりが、そのまま時の経つのも忘れる楽しさの始まりに転じる。
法会にまつわる歌としては、三四段の「もとめてもかかる蓮の露をおきてうき世にまたはかへるものかは」が法会の尊さゆえに俗世へ帰るまいと言うのに対し、こちらは法会の終わりを受けて遊びの側へ踏み出しており、同じ仏事の語彙が逆向きに用いられている。
八講:法華経八巻を八座に分けて講じる法会
薪こる:薪を樵ること。釈迦が前世に薪を樵り水を汲んで仏道を求めたという故事に基づく言い方
にし:完了の助動詞「ぬ」の連用形と過去の助動詞「き」の連体形
を:…のに、という逆接の接続助詞
いざ:さあ、と促す感動詞
斧の柄:山中で碁を見ているうちに斧の柄が朽ちたという故事を踏まえる語
朽たす:朽ちさせる
む:意志をあらわす助動詞
管絃(くわんげん)の遊び:笛や琴などを奏する遊宴
- 出典
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枕草子
- その他の歌
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