都には待つらむものをほととぎす
けふ日ねもすに鳴き暮らすかな
- 歌の意味
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都では今ごろ待ちわびているだろうに。ほととぎすは、ここでは今日一日中鳴き暮らしていることだ。
- 鑑賞
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第十五段 父の司召
東山の風情
年が明けた正月の司召で、父の任官がかなうはずのところ、望みは空しく終わった。その甲斐のなかった早朝、同じ思いでいるはずの人のもとから、いくらなんでも今度はと思いつつ夜の明けるのを待っていた心もとなさ、と言い添えて歌が届き、作者はそれに返した。
四月の末ごろ、しかるべき理由があって東山にある所へ移る。道すがら、苗代に水を引き入れた田も、もう植え終えた田も、なんとなく青みわたって趣深く見渡される。山の影が暗く家の前近くに迫って、心細くしみじみとする夕暮れ、水鶏がしきりに鳴くので一首を詠んだ。
霊山が近い所なので詣でて拝んだが、たいそう苦しかったので、山寺の石井に寄って手で水をすくって飲む。この水はいくら飲んでも飽きない、と言う人があったので作者が歌を詠み、その人が返した。帰って、夕日があざやかに差し、都の方も残りなく見渡されるころ、この人は京へ帰るといって、別れを心苦しく思い、翌朝また歌を寄こした。
念仏する僧が暁に額づく音が尊く聞こえたので戸を押し開けると、ほのぼのと明けてゆく山際、薄暗い梢に霧が一面にかかり、花や紅葉の盛りよりも、なんとなく茂りわたった空の景色が、曇りがちで趣深い。そこへほととぎすまでが、すぐ近くの梢で何度も鳴いた。作者はその暁の景と声とを歌にする。
この月の末ごろ、谷の方の木の上でほととぎすがやかましく鳴いたので、また一首を詠む。そうして眺めてばかりいると、ともにいる人が、今ごろ京でこの声を聞いている人があるだろうか、こうして物思いに沈む自分たちを思いやってくれる人があるだろうか、と言って歌を詠み、作者が返した。
もう暁になっただろうかと思うころ、山の方から人が大勢来るような音がする。驚いて見やると、鹿が縁のもとまで来て鳴いていた。近くで聞くと情趣のない声である。作者はそれを歌に詠む。また、知っている人が近くまで来て帰ったと聞いて、さらに一首を詠んだ。
作者は菅原孝標女。父は菅原孝標で、この正月の司召に任官を望みながら漏れた。「同じ心に思ふべき人」「水飲む人」「もろともにある人」については、原文に名も素性も記されていない。霊山は東山の峰の一つで、山寺があった。
万寿二年(一〇二五)の、その月の末ごろ。東山の住まいである。
谷の方にある木の上で、ほととぎすがやかましく鳴いたことが、この歌の直接の契機である。
独詠であり、返歌は記されていない。このあと、ともにいる人が、今この声を京で聞いている人があるだろうかと言って「山ふかくたれか思ひはおこすべき月見る人は多からめども」を詠み、作者が返すことになる。
初句「都には」で、自分のいる山里と都とを対比する。第二句「待つらむものを」の「らむ」は現在推量の助動詞で、今ごろ待っているだろう、の意。「ものを」は逆接や詠嘆を表す接続助詞で、待っているだろうに、と言いさす。第三句「ほととぎす」を呼びかけのように据え、第四句「けふ日ねもすに」は、今日は一日中、の意。結句「鳴き暮らすかな」の「かな」は詠嘆の終助詞。都の人が待ちわびる声を、ここでは惜しげもなく一日中聞いている、という取り合わせで、山里にいることの豊かさと、その豊かさを都に伝えられないもどかしさとが同時に立つ。直前の「たれに見せたれに聞かせむ山里のこのあかつきもをちかへる音も」と同じほととぎすを別の角度から詠んでおり、二首で一組をなしている。
ほととぎす:初夏に鳴く鳥。その初音を待つのが習わしであった
- 作者
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菅原孝標女
- 出典
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更級日記
- その他の歌
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