濱千鳥あとのとまりを尋ぬとて
ゆくへも知らぬうらみをやせむ
- 歌の意味
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浜千鳥の跡の行き着く先を尋ねるといって、行方も分からない浦見を、恨みをすることになるのだろうか。
- 鑑賞
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今一かたが去ったのち、作者は思ったとおり独り臥し起きする日々となった。世間並みでないことは何もないので、ただ兼家の心が思うようにならないのがつらい。自分だけでなく、年ごろの所への訪れも絶えたと聞き、文などのやりとりがあったので、五月の三日四日のころに歌を送った。返しがある。六月になると月初めから長雨がひどく降り、外を眺めては独り言に歌を詠む。七月になり、いっそ絶えてしまったと思うほうが、たまに来られるよりましだろうかなどと思い続けているところへ、兼家が来た日がある。ものも言わないので所在なげである。前にいる者が、先の下葉のことを話のついでに口にすると、それを聞いて兼家が歌を詠んだ。こうして訪れは絶えないながらも心の解ける夜はなく、荒れゆく家に来ては機嫌が悪く、そのまま帰る時もある。近い隣に事情を知る人がいて、兼家が出るのに合わせて歌を詠みかけ、互いにふすべ合うこともあった。そのころは特に長く姿を見せず、やがて十日ほどして文が来る。作者は文にあった小弓の矢を解きおろして歌を詠み送った。さらに九月ごろ、子が多くいると聞く所へも訪れがまったく絶えたと聞いて、いっそう気の毒に思って便りをすると、格別こまやかな返しがあった。こうして兼家は常には断りきれず時々姿を見せ、やがて冬になる。臥し起きにはただ幼い子をあやしながら、心ならずも古歌の一句が口をついて出る。年が改まって春になると、兼家がこのごろ読もうとして持ち歩いていた文を置き忘れ、女を取りによこした。作者はその文を包んで返す紙に歌を書きつける。折り返し返しがあり、さらに使いが来たので、もう一首を返した。
兼家は藤原師輔の三男で、当時は右兵衛佐。のちに摂政関白太政大臣に至る。作者は藤原倫寧の娘。年ごろの所、また子供あまたありと聞く所と呼ばれるのは、兼家が長年通っている女で、原文は人名を記さない。
天徳元年の春のことで、場所は作者の住まいである。
跡をとどめるのは浦にだけだと言ってきた兼家の歌に対し、ふたたび使いが来たので詠み返した歌である。
この贈答をもってこの段は閉じる。以後、町の小路の女が子を産む場面をはさんで、「ほに出でゝいはじやさらにおほよその靡く尾花に任せても見む」の贈答へと移っていく。
相手の「濱千鳥」「あと」「うら」をそのまま受けて返している。初句に「濱千鳥」を据え、二句の「あとのとまり」で、その足跡が行き着く先を言う。「とまり」は船の泊まる所、行き着く先の意で、千鳥や浦の縁語として働く。三句の「尋ぬとて」は、尋ねるといって、の意。四句の「ゆくへも知らぬ」は、どこへ行ったとも分からない、の意で、結婚成立の場面の「おぼつかな音なき瀧のみづなれやゆくへも知らぬ瀨をぞ尋ぬる」と同じ言い方が、今度は立場を入れ替えて用いられている。結句の「うらみをやせむ」の「うらみ」は、浦を見ることと恨むこととを掛けた語で、この一語が歌の要にあたる。「や」が疑問を添え、跡を追えばかえって恨みを重ねるだけではないか、と問いかけて結ぶ。跡をとどめるのはあなたの浦だけだという相手の誓いを、では跡を尋ねればよいのかと受け流し、恨みへ転じてみせる返しになっている。
とまり:船などの泊まる所。行き着く先。
うらみ:「浦見」に「恨み」を掛ける。
- 作者
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藤原道綱母
- 出典
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蜻蛉日記
- その他の歌
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