嵐こそ吹き来ざりけれ宮路山
まだもみぢ葉の散らで残れる
- 歌の意味
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この宮路山には嵐が吹いて来なかったのだなあ。だからまだ紅葉の葉が散らずに残っているのだ。
- 鑑賞
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第七段 遠江から三河へ
上京の一行は駿河から遠江へと進む。作者は道中でひどく患い、名高い小夜の中山を越えたのも気づかないほどであった。天中川のほとりに仮屋を造って幾日か過ごすうちに、ようやく病は癒えていく。冬が深くなり、川風が激しく吹き上げて寒さも堪えがたい。その川を渡って浜名の橋に着くと、下向のときには黒木を渡してあった橋は跡形もなく、舟で渡る。外の海は荒れて波が高く、入江の何もない洲には松原ばかりが茂り、その間から波が寄せ返すのがさまざまの玉のように見えて趣深い。そこから猪鼻という難儀な坂を上れば三河の国の高師の浜で、名高い八橋は名ばかりで橋の形もなく、何の見どころもない。二むらの山の中に泊まった夜は、大きな柿の木の下に庵を作ったので、一晩中庵の上に柿が落ちかかるのを人々が拾ったりした。そして宮路の山という所を越えるとき、十月の末であるのに紅葉が散らずに盛りであったので、作者はこの歌を詠んだ。
作者は菅原孝標女。父の菅原孝標は菅原道真の五世孫にあたり、上総介として任国に下っていた。母の姉は『蜻蛉日記』の作者藤原道綱母である。一行には姉
継母らが同行していた。
寛仁四年(一〇二〇)十月末。三河の国の宮路の山を越える道中である。
十月も末だというのに、紅葉がまだ散らずに盛りであったのを目にしたことが、この歌の直接の契機である。
贈答ではないため、返歌は記されていない。この後、一行は三河と尾張の境のしかすがの渡りを過ぎ、尾張の鳴海の浦では夕潮に追われて走り抜け、美濃
近江を経て十二月二日に京へ入る。上洛の旅のなかで作者が詠んだ歌は、この歌が最後となる。
初句「嵐こそ」の「こそ」は強意の係助詞で、第二句の結び「けれ」(詠嘆の助動詞「けり」の已然形)と係り結びをなす。「吹き来ざりけれ」は「吹いて来なかったのだなあ」の意で、山を荒らす嵐がこの山にだけは訪れなかったのだと気づいた驚きを表す。第三句で「宮路山」と地名を据えていったん切り、下句「まだもみぢ葉の散らで残れる」で、そう判じた根拠にあたる目の前の景を示す。「散らで」の「で」は打消の接続助詞で「散らないで」の意、結句「残れる」は存続の助動詞「り」の連体形による連体止めで、言い切らずに余情を残す。上句で原因、下句で結果を述べる形をとりながら、実際には目に見えている紅葉から嵐の不在を推し量っているため、思考の順序と歌の順序が入れ替わっている点に工夫がある。十月末という時季はずれの紅葉の盛りに対する驚きが、歌の中心にある。同じ旅で詠まれた「まどろまじ今宵ならではいつか見むくろとの浜の秋の夜の月」が秋の月を惜しんでいたのに対し、ここでは冬に入ってなお残る紅葉が歌われ、季節の推移がそのまま旅の長さを示している。
宮路山:三河の国にある山
つごもり:月の末日。月末
黒木:皮をはがないままの木材
高師の浜:三河の国の海辺の地名
八橋:三河の国の地名。『伊勢物語』で知られる歌枕
庵(いほ):草木で作った粗末な仮小屋
- 作者
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菅原孝標女
- 出典
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更級日記
- その他の歌
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