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いづこにも劣らじものをわが宿の
世をあきはつるけしきばかりは

歌の意味
どこにも劣るまいものを。わが家の、秋の果てていくこの景色ばかりは。見飽きるということもないのに。
鑑賞
第十一段 わが家の庭 六角堂の遣水の夢

 『源氏物語』を得て読みふける日々のなかで、作者は自邸の四季の景を歌に書き留めていく。五月のはじめごろ、軒端近くの花橘がたいそう白く散っているのを眺めて一首を詠む。わが家は、上京の途中に越えた足柄の山の麓で木々が暗く茂りわたっていたのと同じように、木の生い茂った所であったから、十月ごろの紅葉は四方の山辺よりもいっそう趣深く、錦を引き渡したようであった。そこへ外から来た人が、今来た道に紅葉のたいそう趣深い所がありました、と言うのを聞いて、作者はとっさにもう一首を口にする。
 物語のことばかりを昼は一日中思いつづけ、夜も目のさめているかぎり心にかけていたところ、夢に人が現れて、このごろ皇太后宮の一品の宮の御用として六角堂に遣水を作っている、と言う。それはどういうことかと尋ねると、天照大神をご信仰なさい、と答える。作者はその夢を人にも語らず、何とも思わないままにしてしまった。まことにどうしようもないことであった。そして春が来るたびに、その一品の宮の御所を遠く眺めやりながら、さらに一首を詠む。

 作者は菅原孝標女。皇太后宮は藤原道長の三女妍子で、三条天皇の皇后となり、天皇の崩御ののち寛仁二年(一〇一八)十月から皇太后宮と称された。一品の宮は三条天皇の第三皇女で、母は妍子である。六角堂は京の頂法寺で、本堂が六角形であることによる呼び名である。

 十月ごろ、紅葉の盛りである。京の自宅である。

 外から訪ねて来た人が、今来た道に紅葉のたいそう趣深い所がありました、と言ったのを聞き、作者が「ふと」口にしたのがこの歌である。

 返歌は記されていない。この直後、物語のことばかりを思いつづける作者の夢に人が現れ、天照大神を信仰せよと告げるが、作者はそれを心にとめずに終わってしまう。

 初句「いづこにも」は、どこと比べても、の意。第二句「劣らじ」の「じ」は打消推量の助動詞で、劣りはしないだろう、となる。「ものを」は逆接や詠嘆を表す接続助詞で、…であるのに、と言いさして余情を残す。第三句以下は倒置で、結句の「けしきばかりは」が「劣らじ」の主語にあたる。第四句「世をあきはつる」は「秋果つ」に「飽き果つ」を掛けた掛詞で、秋が終わりきる景色でありながら、見飽きることのない景色でもある、という二重の意味になる。「世」は世の中の意で、「飽き」と結びつくと、世をつまらなく思う気持ちも底に響く。客がよその紅葉をほめたのに対して、いや、わが家のこそ、と即座に切り返した歌であり、上京したころには都の中とも見えないと書かれていた荒れた庭が、ここでは誇るべきものに変わっている。同じ段の「時ならずふる雪かとぞながめまし花橘の薫らざりせば」が夏の白を詠むのに対し、こちらは秋の錦を詠み、二首でわが家の庭の季節が対になっている。

いづこ:どこ
あきはつ:「秋果つ」に「飽き果つ」を掛けた掛詞
けしき:ありさま。景色
作者
菅原孝標女
出典
更級日記
その他の歌