苗代の水かげばかり見えし田の
かりはつるまで長居にしけり
- 歌の意味
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苗代の水の照り映えるさまばかりが見えていたあの田が、すっかり刈り入れを終えるまで、長居をしてしまったことだ。
- 鑑賞
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第十六段 東山より帰京
八月になって、二十日過ぎの暁がたの月がたいそう趣深く、山の方は薄暗く、滝の音もほかに似るものがないほどで、作者はただ眺め入って一首を詠む。
やがて東山を発って京へ帰る道すがら、移って来たときには水ばかりが見えていた田が、どれも刈り入れを終えていた。その変わりようにまた一首を詠む。
十月の末ごろ、ちょっと東山に来てみると、暗く茂っていた木の葉が残らず散り乱れ、あたり一面がしみじみと見渡され、心地よくさらさらと流れていた水も木の葉に埋もれて、流れの跡だけが見えている。作者はその景に一首を詠んだ。
東山にいる尼に、春まで命があれば必ず来る、花の盛りにはまず知らせてほしい、などと言い置いて帰ったのに、年が明けて三月十日過ぎになっても便りがないので、催促の歌を送る。
よその家に移って来て、月の出るころ、竹のもとに近い部屋で風の音に目ばかり覚めて、落ち着いて眠れないころ、また一首を詠む。
秋ごろ、そこを立って別の所へ移り、もとの滞在先の主人に歌を贈った。
作者は菅原孝標女。東山にいる尼、また滞在先の主人については、原文に名も素性も記されていない。「旅なる所」は方違えなどで自邸以外の家に滞在することをいう。
万寿二年(一〇二五)の秋、東山を発って京へ帰る道すがらである。
東山へ移った四月末には苗代に水が張られているばかりであった田が、帰り道ではみな刈り入れを終えていた。その変わりようを目にしたことが、この歌の直接の契機である。
独詠であり、返歌は記されていない。京へ帰ったのち、十月の末に東山を再訪して「水さへぞすみたえにける木の葉散る嵐の山の心ぼそさに」を詠むことになる。
初句「苗代の」は稲の苗を育てる田のこと。第二句「水かげばかり」の「かげ」は光や、水面に映るもののことで、水の照り映えるさまばかりが、という意になる。第三句「見えし田の」の「し」は過去の助動詞「き」の連体形で、あのとき見えていた田、と過去を指す。第四句「かりはつるまで」は刈り入れがすっかり終わるまで、の意で、「はつ」が完了しきることを表す。結句「長居にしけり」の「けり」は気づきの詠嘆で、長居をしてしまったことだ、と結ぶ。滞在の長さを月日の数でも心情でもなく、田の景色の変化だけで計っているところにこの歌の作りがあり、東山へ移る道すがら苗代を見たと記していた地の文と、正確に向かい合う形になっている。
水かげ:水の照り映えるさま。「かげ」は光や映るもの
刈りはつ:刈り入れをすっかり終える
- 作者
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菅原孝標女
- 出典
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更級日記
- その他の歌
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