さもこそはちがふる夢はかたからめ
逢はで程經る身さへ憂きかな
- 歌の意味
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いかにも、違える夢は難しいことでございましょう。逢わないまま日を経る我が身までがつらいことです。
- 鑑賞
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十二月の末ごろ、貞観殿の御方がこの西にあたる方へ退出してこられた。晦日になって地震が急に起こり、また昼からもごとごと、はたはたと鳴るのを一人で見ているうちに、年が明けて安和元年になった。正月の昼ごろ、客人のお方には男などが立ち交じらないのでのどかである。こちらも、隣にお残りになっていると聞いて、待たれるものは、などと笑い合っているうちに、ある者が手すさびにかい粟でこしらえた男の形を取り寄せ、以前の雉の端の脛に押しつけて、それに書きつけてあの御方に差し上げた。すると、海松の干したのを短く千切って結び集め、木の先に荷わせ替えて、細かった方の足に腓を削りつけ、もとのものより大きくして返してこられた。日が高くなると節供が供され、こちらでも同じようにして、十五日も例のとおりに過ごした。三月になった。客人の御方に宛てたものと思われる文を、使いが持ち違えてこちらへ届けた。見ると、やはりそのままではいられず近いうちに参上しようと思うけれど、私でなくと思う人がおいでかもしれないので、などと書いてある。長年ご覧になり慣れておられることだから、こういうこともあるのだろうと思うが、それでもそのままにはせず、ごく小さく書きつけて、あの御方にお持ちしなさいと言って返した。御方がご覧になると、すぐに御返しがあった。この御方は東宮の御親のようにしてお仕えになるので参内なさるはずである。こうしていてはなどと度々仰せになるので、宵のころに参上した。折もあろうに向こうで人の声がするので、それそれ、などと仰せになるが、聞き入れないでいると、宵まどいをなさるように聞こえる。やがて人が歩み来て申し上げると、のどかでないまま帰った。翌日の暮れに参内なさった。五月に、帝の御服を脱ぐためにご退出になるにあたって、以前のようにこちらへなどとあったのを、夢に不吉に見えたなどと言って、あちらへご退出になった。そうしてたびたび夢のお告げがあったので、違える方法があればよいと言って、七月、月のたいそう明るい夜にこう詠んでこられた。以後、夢をめぐる贈答が四首重ねられ、さらに川に寄せた贈答が続く。
作者は藤原倫寧の娘。貞観殿の御方は藤原師輔の娘で、亡くなった村上天皇の女御。兼家の姉妹にあたり、原文は人名を記さない。藤原登子とされる。前年の暮れに作者の住まいの西隣へ退出してきており、以後の贈答はその近さのうえに成り立っている。文を持ち違えられた相手は兼家で、藤原師輔の三男。のちに摂政関白太政大臣に至る。
安和元年七月、月のたいそう明るい夜のことで、場所は作者の住まいである。
夢を違えかねて眠れないと詠んでこられた御方の歌に対する御返しである。
これに対して御方は折り返し「逢ふと見し夢になかなかくらされてなごり戀しくさめぬなりけり」と詠まれ、贈答はさらに続く。
相手の「ちがふる夢」をそのまま受けて返している。初句の「さもこそは」は、いかにもそうでございましょう、の意で、相手の言い分をひとまず認める形から入る。二句から三句の「ちがふる夢はかたからめ」は、夢を違えるのは難しいことでしょう、の意で、「こそ〜め」の係り結びが、そこまでは認めるという含みを持たせる。四句の「逢はで程經る」で話を自分の側へ引き取り、夢のせいで逢えないまま日が過ぎていることをいう。結句の「身さへ憂きかな」の「さへ」は添加で、夢が難しいのはもちろん、そのうえ逢えずにいる我が身までがつらい、と重ねる形になる。相手が眠れないつらさを言ったのに対し、こちらは逢えないつらさを並べており、同じつらいという語を用いながら、その中身を入れ替えて返している。夢を口実に隣へ来られないままであることへの、やわらかな催促にもなっている。
ちがふ:夢の凶を避ける。夢違えをする。
ほど:時間のへだたり。あいだ。
- 作者
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藤原道綱母
- 出典
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蜻蛉日記
- その他の歌
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