うき世をばかばかりみつの濱べにて
淚になごりありやとぞ見し
- 歌の意味
-
つらい世をこれほどと見た、その三津の浜辺で、涙に名残があるかどうかと見届けたことだ。
- 鑑賞
-
こうしたまま二十日あまりになった心地は、どうしようもなく、不思議に身の置き所もない。どうにかして涼しい方面もあろうかと、心を晴らしがてら、浜辺の方で祓えでもしようと思って唐崎へ出かける。寅の刻ごろに出立すると月がたいそう明るい。同じような身の人と、供にもう一人ばかりがあるので、ただ三人で車に乗り、馬に乗った男たちが七八人ほどある。賀茂川のあたりでほのぼのと明ける。山路になって京とは違う様子を見るにつけても、このごろの心地であるからか、たいそうしみじみとする。まして関に至って車をとめ、牛を替えなどするうちに、空車を引き続けて、粗末な木こりが薄暗いなかから出てくるのも、心地が引き返るようで趣深い。行く先を見やると果てもなく見渡され、鳥が二つ三つ浮いていると見えるものは、強いて思えば釣舟であろう。そこでは涙をとどめきれなかった。やがて大津の家々の中を通り、遥々と浜に出た。祓えをするうちに風はひどく吹くけれど、木蔭がないのでたいそう暑い。未の刻ごろに終わったので帰る。名残惜しくしみじみと見ながら行き過ぎて、山口に至るころには申の刻の終わりごろになった。ひぐらしが盛んに鳴き満ちている。それを聞いて心に浮かんだ歌は、人には言わなかった。走井には、それぞれ馬を早めて先立つ者もあって着いたところ、先立った人々がたいそうよく休み涼んで、心地よさそうにしていて、車を降ろす所へ近寄ってきたので、後方に乗っている人が上の句を言い、下の句が付けられた。近くに車を寄せ、幕を引き下ろして皆降りた。手足も水に浸したので、心地は物思いも晴れるように思われる。日が暮れると促されて立ち、栗田山という所で京から人が来て、この昼、殿がおいでになりました、と言うのを聞くのがたいそう不審である。留守を狙われたのかとまで思われる。翌日は疲れて過ごし、その翌日、幼い人が殿へと出立する。不審であったことを尋ねようかと思うのも気が進まないけれど、先日の浜辺を思い出す心地の忍びがたさに負けて歌を書き、これを見ておられないうちに置いて、そのまま帰れ、と教えたので、置いてきましたと言って帰った。もし見た様子でもあろうかと待たれることであった。けれども素知らぬふうで月末ごろになった。
作者は藤原倫寧の娘。兼家は藤原師輔の三男で、のちに摂政関白太政大臣に至る。幼き人は作者の子の藤原道綱。唐崎は近江の湖畔の地で、祓えの場として知られる。走井は逢坂の関のそばに湧く清水である。しりなる人は車の後方に乗り合わせた供の人で、原文に人名の明示はない。
天禄元年六月、唐崎からの帰りののちのことで、場所は作者の住まいと兼家のもとである。
留守中に兼家が来ていたと聞いて不審に思いながら、翌々日、幼い道綱が父のもとへ出立する。不審であったことを尋ねようかと思うのも気が進まないけれど、先日の浜辺を思い出す心地の忍びがたさに負けて書き送った歌である。これを見ておられないうちに置いて、そのまま帰れ、と教えて持たせた。
道綱は、置いてきましたと言って帰った。もし見た様子でもあろうかと待たれたけれど、素知らぬふうで月末ごろになった。
初句の「うき世をば」は、つらいこの世を、の意で、日ごろの嘆きを冒頭に据える。二句の「かばかりみつ」の「みつ」は、これほどと見た、という意の「見つ」であると同時に、大津の浜の名である三津を掛けており、この一語が歌の要にあたる。世のつらさをこれほどと見た、という心の話が、そのまま浜の地名へ折り返す。三句の「濱べにて」で場所を定め、四句の「淚になごり」へ渡す。「なごり」は名残であるとともに、波の引いたあとに残る余波の意を持ち、浜の語として働く。祓えの浜で涙を流し尽くしたはずなのに、その名残がまだあるかどうかを見た、という言い方になる。結句の「ありやとぞ見し」は「ぞ」の結びで、見届けたのだと言い切る。祓えとは穢れを水に流す行事であるから、涙も流し去られてよいはずなのに残っている、という理屈が下敷きにあり、行楽の報告を装いながら、留守を狙われたことへの恨みをその底に置いている。見られないうちに置いて帰れと子に教えたという地の文が、返事を期待しない構えを示している。
みつ:「見つ」に、浜の名の「三津」を掛ける。
なごり:「名残」に、波の引いたあとの「余波」を掛ける。
はらへ:穢れを水に流して清める行事。
- 作者
-
藤原道綱母
- 出典
-
蜻蛉日記
- その他の歌
-