巻向の山辺響きて行く水の
水沫のごとに世をば我が見る
- 歌の意味
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巻向の山辺を音を響かせて流れて行く水の泡のように、この世をはかないものと私は見る。
- 鑑賞
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巻第二十 哀傷 1320
詞書は前の歌に続き「妻の死に侍りてのち、悲しびて詠める」
巻向の山辺を響かせて流れる水の泡のように、この世をはかないものと見ると詠む歌である。詞書は前歌の第千三百十九首と同じく、妻が亡くなった後に悲しんで詠んだ歌である。勢いよく流れる山の川に浮かんではすぐに消える水の泡に、この世のはかなさを重ね、妻を失って世の無常を思い知った心を詠んでいる。本巻の第千三百十三首の結句「水の泡かな」と、水の泡に人の世のはかなさを重ねる点で通い合っている。
作者の「人まろ」は柿本人麻呂である。持統天皇、文武天皇の時代に仕えた宮廷歌人で、歌聖と称される。三十六歌仙に数えられる。
万葉集の巻七に、柿本人麻呂歌集の歌として、下の句を「水沫のごとし世の人我は」とする類歌が見える。
初句「巻向の」は、大和国の巻向山の、の意である。
二句「山辺響きて」は、山のあたりを響かせて、の意で、勢いよく流れる川の音をいう。
三句「行く水の」は、流れて行く水の、の意で、ここまでが四句の「水沫」を導いている。
四句「水沫のごとに」は、水の泡のように、の意で、はかなく消えるもののたとえである。
結句「世をば我が見る」は、この世を私は見る、の意で、「ば」は強めを表す。
みなわ:水沫。水の泡
まきもく:巻向。大和国の地名
- 作者
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柿本人麻呂
- 出典
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拾遺和歌集
- 前の歌
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家に行きて我が屋を見れば玉笹の 外に置きける妹が小枕
- 次の歌
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妹山の岩根に置ける我をかも 知らずて妹が待ちつつあらん