浦がくれ見ることかたき跡ならば
汐干をまたむからきわざかな
- 歌の意味
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浦に隠れて見ることの難しい跡であるのなら、潮の干るのを待ちましょう。つらいことです。
- 鑑賞
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七月五日のこと、作者が長い物忌みに籠っていたところ、兼家から、明後日あたりには逢坂だという便りがあった。その返事に歌を詠むと、趣が変わったとでも思ったのだろうか、兼家は少し心をとめたようで、そのまま月日が過ぎてゆく。目に余ると思っていた町の小路の女は、今では世間の物笑いになっていると聞いて心が安らぐ。昔からのことはどうしようもない、堪えがたくとも自分の宿世の拙さなのだと、心をさまざまに思いなして過ごすうちに、兼家は少納言の年を経て四位になり、殿上も降りて、司召では意に染まぬ官に就いた。世の中をたいそう疎ましく思う様子で、あちこちに通うほかに出歩くこともないので、たいそうのどかに二三日を過ごしたりする。そのころ、その意に染まぬ役所の長官である宮から歌が届き、兼家が返した。糸に寄せた贈答が三度重ねられる。やがて五月二十日過ぎから四十九日の忌を違えようとして、以前行った所へ移ったところ、宮もちょうど垣一つを隔てた所に移っておられた。六月にかけて雨がひどく降り、誰もが降りこめられていたのだろう。こちらは粗末な所なので雨漏りの騒ぎをしていると、宮から歌が届く。以後、長雨と恋路に寄せた贈答が重ねられ、さらに撫子や浜千鳥に寄せて続いていく。
兼家は藤原師輔の三男で、このころ少納言の年を経て四位に上った。のちに摂政関白太政大臣に至る。作者は藤原倫寧の娘。宮は兼家が次官として仕えた役所の長官で、原文は人名を記さない。章明親王とされる。町の小路の女も素性を明かされないまま呼ばれる女である。
六月ごろのことで、場所は作者が忌違えのために移った仮の宿である。
宮の御文が女手で書かれていたため、男の手で返しては具合が悪いとして、作者自身が詠んで返した歌である。
これに対して宮から「うらもなくふみやる跡をわたつ海の汐の干るまも何にかはせむ」が届き、この段の贈答はここで閉じる。
相手の「うら」「あと」をそのまま受けて返している。初句の「浦がくれ」は浦に隠れて見えないことで、水嵩が増して跡が見えないと言ってきた相手の言い分をそのまま引き取る。三句の「跡ならば」の「あと」は相手と同じく足跡と筆跡との掛詞で、その筆跡が見にくいものであるならば、の意になる。宮の文が女手で書かれていたという事情を踏まえると、いつもと違う筆跡で来たことを軽く突く言い方にもなっている。四句の「汐干をまたむ」は、潮が引いて跡が現れるのを待とう、の意で、水の縁語を保ったまま、便りを待つ心へ転じる。結句の「からきわざかな」の「からき」は、塩辛いという意と、つらいという意とを兼ねており、潮の縁語として働きながら、待つ身のつらさを言う。景の中の語を一つも外へ出さずに嘆きだけを伝える作りで、身分の高い相手に対しても角の立たない返し方になっている。
汐干(しほひ):潮が引くこと。
あと:足跡。転じて筆跡。
からし:塩気が強い。つらい。
- 作者
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藤原道綱母
- 出典
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蜻蛉日記
- その他の歌
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