古典和歌stream

思ひきや雲の林にうち捨てゝ
そらのけぶりにたゝむものとは

歌の意味
思っただろうか。雲の林、その雲林院に打ち捨てて、空の煙となって立つことになろうとは。
鑑賞
 母が亡くなり、山寺に籠って十日あまりになった。僧たちが念仏の合間に話すのを聞くと、亡くなった人の姿がありありと見える所がある、近づけば消え失せ、遠くからは見える、どこの国とかいう、みみらくの島というのだそうだ、と口々に語っている。それを聞いて、たいそう知りたく、悲しく思われて歌が口をついて出た。それを聞いた兄弟の人も、泣く泣く返した。そうしているうちに、兼家は立ったまま立ち寄って人に様子を尋ねるばかりで、こちらは何を考える気力もない。やがて皆が山寺を出立する日になった。来たときは膝に臥しておられた母をどうにか安らかにと思いながら運び、それでもと思う心が添って頼もしかったが、今度はたいそう安らかに、あきれるほどゆったりと乗って帰るにつけても、道すがらひどく悲しい。車を降りて見るにつけても、言いようもなく悲しい。母と一緒に外へ出ては手入れさせた草なども、患い出してからは打ち捨てていたので、生い茂って色とりどりに咲き乱れている。しかるべき事どもは皆それぞれが手分けしてするので、自分はただ所在なく物思いに沈むばかりで、古歌の一句ばかりが口をついて出る。そして歌を詠んだ。兼家は作者がこう心細げなのを思ってか、以前より繁く通ってくる。寺へ物を届けたときには、袈裟に添えて歌を書いて送った。またその袈裟の主の兄も法師であって、祈りなどもつけて頼もしく思っていたのに、急に亡くなったと聞くにつけ、この兄弟の心地はどんなだろう、自分も残念だと思い乱れて、たびたび弔問する。しかるべき事情があって雲林院に仕えていた人である。四十九日などが終わってから歌を言い送った。こうして自分の心地がわびしいままに、思いは野にも山にも及ぶのだった。
 作者は藤原倫寧の娘。亡くなったのは作者の母で、日記はその名を記さない。せうとなる人は作者の兄弟にあたる人で、原文はその呼び名のみを記す。兼家は藤原師輔の三男で、のちに摂政関白太政大臣に至る。袈裟の主は寺の僧で、その兄も法師であり、雲林院に仕えていた。
 康保元年、亡くなった法師の四十九日が終わったころで、場所は雲林院である。
 袈裟の主の兄にあたる法師が急に亡くなった。祈りなどもつけて頼もしく思っていた人であり、残された兄弟の心地はどんなだろう、自分も残念だと思い乱れて、たびたび弔問していた。その四十九日などが終わってから言い送った歌である。
 地の文は、こうして自分の心地がわびしいままに、思いは野にも山にも及ぶのだった、と記して、この段を締めくくる。

 初句の「思ひきや」は、思っただろうか、いや思いもしなかった、という反語で、不意の死への驚きから歌を起こす。二句の「雲の林」は雲林院を掛けた語で、亡くなった法師が仕えていた寺の名をそのまま景に取り込んでいる。雲と林という二つの語が、次の空と煙とを自然に呼び寄せる働きも兼ねており、この一語が歌の要にあたる。三句の「うち捨てゝ」は、あとに残して、の意で、残された兄弟の側から見た言い方になる。四句の「そらのけぶり」は火葬の煙で、雲の林に対して空を置き、林から立ちのぼる煙という景を作る。結句の「たゝむものとは」は体言で受けて言い終える形で、下に続くはずの言葉を省いており、思いもよらなかったという初句へ戻って円環をなす。母を失ったばかりの作者が、頼みにしていた僧の死をも重ねて悼んだ一首であり、地の文がこれを、わびしい心地のままに野にも山にも思いが及んだ、と結ぶとおり、この段の嘆きはここで身近な死の全体へ広がっている。

雲の林:「雲林院」を掛ける。
けぶり:火葬の煙。
四十九日(しじふくにち):人の死後四十九日目に営む法要。
作者
藤原道綱母
出典
蜻蛉日記
その他の歌