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引きとむるものとはなしに逢坂の
關の朽ちめのねにぞそぼつる

歌の意味
引きとどめるすべもないままに、逢坂の関の、その朽ち目とも見える音に、袖は濡れそぼつことだ。
鑑賞
 多くある中でも頼もしく思っている人が、この夏から遠い所へ下ることになっていた。喪が明けてからということであったので、このころ出立しようとする。それを思うと、心細いという言葉ではとても足りない。今日が最後という出立の日、そちらへ渡って見る。装束一そろいばかりと、ちょっとした物などを硯箱一組に入れて、たいそう騒がしく人が満ちあふれているけれども、自分も行く人も目も見合わせず、ただ向かい合って涙をこらえかねている。皆さんどうか堪えてくださいませ、ひどく忌むことだそうですから、などと人は言う。それなら車に乗り終えるのを見るのはさぞつらかろうと思っていると、家から、早くお帰りなさい、こちらに人がおいでです、と言ってきたので、車を寄せさせて乗るときに、行く人は二藍の小袿である。残る自分はただ、薄物の赤朽葉を着ていたのを脱ぎ替えて別れた。九月十日ごろのことである。家に帰ってからも、どうしてこんなに縁起でもないと咎められるほど、ひどく泣かれる。さて、昨日今日は関山あたりを行っているだろうかと思いやって、月がたいそうしみじみとするのに眺めやっていると、あちらでもまた起きて琴を弾きなどして歌を寄こした。これも同じように旅立った人を思うべき人だからなのだった。返しを詠み、そんなふうに思いやっているうちに年も改まった。
 作者は藤原倫寧の娘。旅立った人は作者が頼もしく思う女性で、原文は人名を記さない。歌を寄こしたあちらの人も、原文に詠み手の明示はない。
 康保二年九月十日過ぎの、月のしみじみとする夜のことで、場所は作者の住まいである。
 旅立った人が昨日今日は関山あたりを行っているだろうかと思いやり、月を眺めていたところ、あちらでもまた起きて琴を弾きなどして寄こしてきた歌である。
 地の文は、これも同じように旅立った人を思うべき人だからなのだった、と説明を添える。作者は「思ひやる逢坂山のせきのねは聞くにもそでぞくちめつきぬる」と返し、そんなふうに思いやっているうちに年も改まった。

 初句から二句の「引きとむるものとはなしに」は、引きとどめる手立てもないままに、の意で、見送るほかなかった立場をそのまま述べる。三句の「逢坂の」は、旅人が東へ下るときに越える関の名で、いま旅立った人が通っているであろう場所をさす。逢坂の関はかつて求婚の贈答の「あふ坂の關やなになり近けれど越えわびぬればなげきてぞ經る」で、逢うことを妨げるものの象徴として用いられた。同じ関がここでは比喩ではなく実際の道の上の関としてあらわれており、日記のなかで語の働き方が変わっていることが見てとれる。四句の「關の朽ちめ」は、底本に乱れがあって語形も語義も定まらないが、関屋の朽ちた木目とする読みが取りやすい。結句の「ねにぞそぼつる」の「ね」は音であり、琴を弾きながら詠んだという場に応じている。「そぼつ」は濡れそぼつ意で、「ぞ」の結びが涙の深さを強める。

逢坂の関:山城と近江の境にあった関。東へ下る旅人が越える。
そぼつ:ひどく濡れる。濡れそぼつ。
くちめ:朽ちて生じた傷み。底本に乱れがあり、語形
語義ともに定まらない。
出典
蜻蛉日記
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