隱れぬに生ふる數をば誰か知る
あやめ知らずも待たるなるかな
- 歌の意味
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隠れ沼に生える数を、いったい誰が知ろうか。あやめも分からぬままに、待たれているのだなあ。
- 鑑賞
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このころ四月の祭を見に出たところ、かの所も出ていた。そうであるらしいと見て、迎えに立った。待つ間が所在ないので、橘の実などがあるのに葵をかけて、上の句を言い送った。かなり久しくあって、下の句が返ってきた。憎らしく思って当然の相手として年を経てきたのに、無礼なことだとばかり言うだろう、と言う人もいる。帰って、こうであった、などと語ると、食いつぶしてしまいたい気持ちがすると言わなかったのか、と言って、たいそう面白がった。今年は五月の節会を帝がご覧になるというので、たいそう騒いでいる。どうにかして見たいと思うが場所がない、見ようと思うなら、と言うのを聞きとがめて、双六を打とうと言うと、よかろう、物見の償いに、と言って勝負をした。喜んでしかるべき支度などをしながら、宵の間、静まったときに硯を引き寄せて、手習に歌を書いて差しやると、笑って返しを言い、見せようという心があったので、宮の御桟敷の続きで二間あったのを分けて、立派にしつらえて見せた。
兼家は藤原師輔の三男で、のちに摂政関白太政大臣に至る。作者は藤原倫寧の娘。かの所と呼ばれるのは、原文が場所の言い方だけで示す相手で、人名は記されない。宮の御桟敷は、祭を見るために設けられた宮の桟敷である。
康保三年五月の節会に先立つ宵のことで、場所は作者の住まいである。
節会が待たれると手習に書いて差しやってきた作者の歌に対し、兼家が笑って返したものである。
この返しののち、兼家は見せようという心があったので、宮の御桟敷の続きの二間を分けて立派にしつらえ、実際に節会を見せてくれた。
相手の「あやめ」「數」「待たる」をそのまま受けて返している。初句の「隱れぬ」は隠れ沼、すなわち草に隠れて人目につかない沼のことで、菖蒲の生える場所として持ち出される。二句の「生ふる數をば」は相手の「生ひにし數」を受けたもので、隠れ沼に生える菖蒲の数など誰にも分からない、という方向へ転じる。三句の「誰か知る」は反語で、誰も知りはしない、の意になる。四句の「あやめ知らずも」の「あやめ」は菖蒲であると同時に文目、すなわち物の道理や区別のことで、この一語が歌の要にあたる。菖蒲の名を借りながら、わけも分からずに、という意味を重ねる形になる。結句の「待たるなるかな」は詠嘆で、そんなふうに待たれているのだなあ、と受け流す。年月の数を数えてみせた相手に対し、数など誰にも分からないと言いなし、切に待つという言葉を、わけも分からず待っているのだと軽くかわしている。地の文が、笑って、と記すとおり、座興を座興のまま受け止めた応じ方で、そのうえで実際に桟敷を用意したところに、この場面の和やかさがある。
隠れぬ:隠れ沼。草に隠れて人目につかない沼。
あやめ:菖蒲。「文目」すなわち物の道理や区別を掛ける。
- 作者
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藤原兼家
- 出典
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蜻蛉日記
- その他の歌
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