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絕えぬるか影だにあらば問ふべきを
かたみの水はみくさゐにけり

歌の意味
絶えてしまったのだろうか。影だけでもあれば問うこともできように、形見の水には水草が生えてしまった。
鑑賞
 心のどかに暮らしていた日、つまらないことを言い合った果てに、自分もあの人も悪く言い合うようになって、恨み言を言って出て行くことになった。端のほうへ歩み出て、幼い人を呼び出して、私はもう来ないつもりだ、などと言い置いて出て行ったとたん、その子は這い入ってきて、跳ね上がって泣く。どうしよう、どうしよう、と言うのを見るのもたいそうつらい。五六日ほどになったのに音沙汰もない。いつもとは違う長さになったので、まあ気違いじみたことだ、戯れごとだとこちらは思っていたのに、頼りない仲なのだから、このまま終わることもあるだろうと思うと、心細くて物思いに沈む。そのうちに、出て行った日に使った泔坏の水が、そのまま残っているのに目がとまった。上には塵が浮いている。こんなにまでなってしまったのかと、あきれて歌が浮かんだ。などと思ったその日にちょうど姿を見せた。いつものようにうやむやになって終わった。
 兼家は藤原師輔の三男で、のちに摂政関白太政大臣に至る。作者は藤原倫寧の娘。幼い人は作者の子の藤原道綱である。
 康保三年、口論のあと五六日ほど音沙汰のなかったころで、場所は作者の住まいである。
 言い争いの果てに兼家が出て行き、五六日たっても音沙汰がない。心細く物思いに沈むうちに、出て行った日に使った泔坏の水がそのまま残り、上に塵が浮いているのに気づいて、あきれて浮かんだ歌である。
 地の文は、などと思ったその日にちょうど兼家が姿を見せ、いつものようにうやむやになって終わった、と記す。

 初句の「絕えぬるか」は、絶えてしまったのだろうかと、仲の切れ目を疑うところから起こす。二句の「影だにあらば」の「影」は水に映る姿のことで、水鏡に映った面影さえあれば、の意になる。三句の「問ふべきを」は、問いかけることもできように、の意で、「を」が逆接のまま次へ渡す。四句の「かたみの水」は、あの人が最後に使っていった泔坏の水を形見と呼んだもので、日常の道具が形見の語を得ることでにわかに死の気配を帯びる。結句の「みくさゐにけり」は、水草が生えてしまった、の意で、「けり」が気づきをあらわす。数日で水草が生えるはずもないから、これは塵の浮いた水面をそう見立てたものであり、放置された水の濁りが、そのまま絶えた仲の姿になる。荒れた庭に夫婦の仲を映す型はこの日記に繰り返し用いられてきたが、ここでは庭ではなく、髪を梳るための小さな器一つに絞られている。その一点に絞ったところにこの歌の力があり、上巻でもよく知られた一首となっている。

泔坏(ゆするつき):髪を洗い梳るための水を入れる器。
かたみ:形見。亡き人や去った人の残した品。
みくさ:水草。
影(かげ):水に映る姿。面影。
作者
藤原道綱母
出典
蜻蛉日記
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