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おくれじとうきみさゝぎに思ひ入る
心は死出の山にやあるらむ

歌の意味
後れまいと、つらい御陵に思いを入れる、この心は、もう死出の山にあるのでしょうか。
鑑賞
 五月になった。十日過ぎに帝のご病気のことがあって騒ぎ立てるほどもなく、二十日過ぎのころに崩御なさった。東宮がただちに位にお即きになる。東宮の亮といっていた人は蔵人の頭などといって騒がれるので、悲しみは世間一般のこととして、こちらではお喜びということばかりが聞こえる。それに応対などをして少しは人並みの心地もするけれど、私事の心はやはり同じことでありながら、うって変わったように騒がしくなどしている。御陵がどうのと聞くにつけ、寵を受けておられた方々がどのように思っておられるかとお察し申し上げるのが悲しい。ようやく日数が経ってから、貞観殿の御方にいかがですかなどと申し上げたついでに歌を添えた。御返事はたいそう悲しげであった。御四十九日が果てて七月になった。帝にお仕えしていた兵衛佐が、まだ年も若く、思うところがありそうにも見えないのに、親をも妻をも打ち捨てて山に這い登り、法師になってしまった。ああ大変なことだと騒ぎ、気の毒だと言っているうちに、その女もまた尼になったと聞く。以前から文を通わせなどする間柄なので、たいそう気の毒であきれたことだと弔問した。すると、そのまま返事をしてきた。それもたいそう悲しい。
 作者は藤原倫寧の娘。帝は村上天皇で、康保四年五月に崩御した。東宮の亮といっていた人は兼家で、藤原師輔の三男。この崩御を機に蔵人頭となり、のちに摂政関白太政大臣に至る。貞観殿の御方は師輔の娘で、亡くなった帝の女御。兼家の姉妹にあたり、原文は人名を記さない。藤原登子とされる。法師になった兵衛佐と、尼になったその妻も、原文は人名を記さない。なお底本の傍注は即位した東宮を円融院とするが、康保四年に即位したのは冷泉天皇である。
 康保四年五月、村上天皇の崩御からしばらく経ったころで、場所は貞観殿の御方の御所である。
 作者が見舞いを申し上げたついでに添えた「世の中をはかなきものとみさゝぎの埋るゝ山になげくらむやぞ」に対する御返事で、地の文はこれをたいそう悲しげであったと記す。
 この贈答ののち四十九日が果てて七月になり、兵衛佐の出家と、その妻の出家を弔問する場面へと移っていく。

 相手の「みさゝぎ」「山」をそのまま受けて返している。初句の「おくれじと」は、後れまいと、すなわち先立たれたままでいるまいと、の意で、亡き人のあとを追いたい気持ちをいう。二句の「うきみさゝぎ」は、つらく思われる御陵、の意。三句の「思ひ入る」は深く思いを寄せる意であるが、「入る」の一語が御陵の埋もれる山に分け入る意をも兼ねており、心が実際にその山へ入っていくかのような言い方になる。この一語が四句から結句への渡りを作っている。「死出の山」は死者が越えてゆくという山で、御陵の山からその山へと、同じ山の語を伝って心が移る構えである。結句の「やあるらむ」は推量に疑問を添えた形で、自分の心はもうそこにあるのだろうかと、自らに問うように結ぶ。どれほど嘆いておられるかと問うてきた相手に対し、嘆きの深さを述べる代わりに、心がすでにこの世を離れていると答える形になっており、悲しげであったという地の文の評がよく当たっている。

みさゝぎ:天皇の陵墓。
死出の山:死者が越えるという山。
おくる:後に残される。先立たれる。
出典
蜻蛉日記
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