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年ごとにあまれる君がため
閏月をばおくにやあるらむ

歌の意味
年ごとに余ってしまうあなたのために、閏月は置いてあるのだろうか。
鑑賞
 こうしてはかなくも、また年の改まる朝になった。長年、不思議とこの家は世間の人がする事忌みなどもしない所だからこうなのだろうかと思い置いて、いざり出るなり、さあ、ここの人々、今年だけでもどうにか事忌みなどをして世の中を試してみよう、と言う。それを聞いて、はらからと思われる人が、まだ臥したまま、天地を袋に縫って、と古歌の一句を唱える。作者はたいそう面白くなって、それならいっそ、三十日三十夜は我がもとに、とでも言おう、と言う。前にいる人々が笑って、まことに願いどおりのことでございますね、同じことならこれをお書きになって殿に差し上げなさいませ、と言う。臥していた人も起きて、たいそうよいことだ、天下の四方にもまさるだろう、などと笑い笑い言うので、そのまま書いて、幼い道綱に持たせて差し上げた。このころ兼家は時めく人であるから、人がたいそう多く参り集まっている。内裏へも早くと、たいそう騒がしそうであったけれど、返しがあった。今年は五月が二つある年であるからだろう。作者は、祝いを損なってしまったと思う。
 作者は藤原倫寧の娘。兼家は藤原師輔の三男で、このころ時めく人であった。のちに摂政関白太政大臣に至る。使いに立ったのは作者の子の藤原道綱。はらからと覚しき人は作者の兄弟にあたる人で、原文はその呼び名のみを記す。
 安和二年正月一日の朝のことで、場所は作者の住まいと兼家のもとである。
 作者が戯れに書きつけた、三十日三十夜は我がもとに、という言葉を、幼い道綱に持たせて差し上げたのに対する返しである。
 地の文は、この返しを見て作者が、祝いを損なってしまったと思った、と記す。年頭の言祝ぎのつもりが、結局は自分の求めの多さを笑われる形になったことをいう。

 初句の「年ごとに」は毎年、の意で、三十日三十夜という求めが年ごとに繰り返されることをさす。二句の「あまれる」は余る、の意で、一年の日数では収まりきらず余ってしまうことをいう。三十日三十夜を毎月求めれば、日数はどうしても余る。三句以下の「閏月をばおくにやあるらむ」は、閏月は置いてあるのだろうか、と推量で結ぶ形で、この年が閏五月を持つ年であったことをそのまま材料にしている。暦に余分の月が置かれているのは、あなたの求めが年ごとに余るからなのだろうか、という理屈になり、正面から応じるのでも断るのでもなく、暦の仕組みに事寄せて笑ってみせる応じ方である。三十日三十夜という要求を、日数の計算という現実の話へ引き取ってしまうところにこの歌の働きがあり、作者が祝いを損なったと思ったのも、言祝ぎが計算の話に変えられてしまったからである。なお底本には乱れがあり、句の切れ目は定まらない。

閏月(うるふづき):暦を調整するために置かれる余分の月。
事忌み(こといみ):不吉な言葉を避けて慎むこと。
作者
藤原兼家
出典
蜻蛉日記
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