あるゝうらに鹽の煙は立ちけれど
こなたにかへす風ぞなかりし
- 歌の意味
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荒れた浦に塩の煙は立ったけれど、こちらへ吹き返してくる風はなかったのです。
- 鑑賞
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こうしているうちに心地も少し人心地がしてきたが、二十日過ぎのころ、御嶽へということで兼家が急ぎ出立する。幼い道綱もお供にというので出かけるので、あれこれ支度をして送り出し、その日の暮れに、もとの所などの支度が済んだので移った。供をするはずの人などを残していったので、そのまま移ったのである。それにしても、あれほど気がかりな子までを添えてやったので、どうしているかどうしているかと念じ続けていると、七月一日のころ、暁に来て、たった今お帰りになりました、などと語る。ここは道のりがたいそう遠くなったので、しばらくは行き来なども難しいだろうなどと思っていると、昼ごろに姿を見せたのは何事であったのだろうか。さてそのころ、帥殿の北の方はどうしてお知りになったのか、あれは多武の峰からのものだったとお聞きになって、この六月ごろのことと思われたが、使いが持ち違えて別の所へ持って行ってしまった。受け取った側は不審とも思わなかったのだろうか、返事などを申し上げたと伝え聞いて、その返事を聞くと所を間違えたのだった。言いようもないことだが、また同じことを申し上げたら、あちらは伝え聞いていることだろうし、たいそうねじけたことになろう。どんなに心ないと思っておられることだろうと騒がれると聞くのがおかしいので、このままではやめまいと思って、前と同じ筆跡で歌を送った。浅縹の紙に書き、葉が繁くついた枝に立文にしてつけたのである。これもまた置いて使いが姿を消したので、先のようであろうかと遠慮なさったのだろうか。やはり心もとない。不思議なことばかりだと思う。しばらくして、確かな伝手を尋ねて北の方が歌を詠んでこられた。幼い筆跡で、薄墨の紙に書き、松の枝につけてくださった。その御返しには歌を詠み、胡桃色の紙に書いて、色の変わった松につけた。
作者は藤原倫寧の娘。兼家は藤原師輔の三男で、のちに摂政関白太政大臣に至る。御供をした幼き人は作者の子の藤原道綱。帥殿の北の方は安和の変で流された西の宮の左大臣の妻で、この六月に尼となった。原文は人名を記さない。多武の峰は北の方の兄弟である入道の君のいる所で、先の長歌はそこからの便りを装って届けられていた。
安和二年七月ごろのことで、場所は作者の住まいである。
煙を尋ね出してはくださらないのか、と詠んでこられた北の方の歌に対する返しである。胡桃色の紙に書いて、色の変わった松につけて差し上げた。
この贈答をもって、名を伏せたままの文のやりとりはひとまず落ち着く。以後、八月になって小一条の左大臣の御賀の屏風歌を強いられる場面へと移っていく。
相手の「しほのけぶり」「風」をそのまま受けて返している。初句の「あるゝうら」は荒れた浦のことで、焼け出されて移り住まわれた御殿の荒廃をさすとともに、「うら」に心の意を掛けており、荒れているのは浦であり心でもある。二句から三句の「鹽の煙は立ちけれど」は、煙は確かに立っていたけれど、の意で、相手の便りが出されていたこと自体は認める形になる。四句の「こなたにかへす風」は、こちらへ吹き返してくる風のことで、煙をこちらへ運ぶはずのものをいう。使いが所を違えたという実際の出来事が、風の向きの話に置き換えられている。結句の「風ぞなかりし」は「ぞ」の結びで、そういう風はなかったのだ、と言い切る。相手が、煙は立っているのだから尋ね出せばよいと言ったのに対し、煙が立っていたことは認めたうえで、それを運ぶ風がなかったのだと答えており、どちらの落度でもないことにしておさめている。色の変わった松につけたのは、尼となられた相手への心づかいとも、変わりゆくものへの感慨とも読める。
うら:「浦」に、心の意の「うら」を掛ける。
しほのけぶり:藻塩を焼くときに立つ煙。
胡桃色(くるみいろ):胡桃の実で染めた薄い茶色。
- 作者
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藤原道綱母
- 出典
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蜻蛉日記
- その他の歌
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