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いふよりも聞くぞ悲しき敷島の
世にふるさとの人やもになり

歌の意味
言う人よりも、聞くほうが悲しい。敷島の世に古びてゆく、あの故郷の人はどうなったのだろう。
鑑賞
 六月四日、兼家の物忌みが終わらないうちにと出立して、西山の鳴滝にある寺に籠った。兼家が迎えに来るが応じず、文をやりとりしながら山寺の暮らしが続く。妹が訪ね、兼家の使者が来、悲しい決意を固め、また兼家の文が届く。次々に見舞いの文が来て、翌日には返事をするけれども、ずっと籠っていたいとは思わないなどとあれこれ考えるうちに時が経つ。その心境を、文をくれた人に詠み送った。返しがある。また、宿直の侍女たちのもとへ、かつて宿直をしていた人が、あなた方もつらい思いでご主人をお世話していることでしょう、身分の高い低いにかかわらず浮き沈みはあるという歌もあります、などと言って歌を寄こした。侍女からその歌を聞いた作者が、早く返事をなさいと言うので、侍女が、ご主人が涙をこらえている様子を見ると私たちもつらい気持ちです、と言って返した。やがて親族の人が見舞いに来て帰り、翌日には旅先で長く滞在するのに必要な品々を届けたうえ、はるばる苦しい思いをして山寺へ来るのも大変だったでしょう、と言って歌を二首詠んでよこした。作者は一生懸命に返事を書いて、二首を返す。そののち登子と文をやりとりし、寺の修行者で御嶽から熊野へ大峰越えをして行った人からも歌が寄せられる。やがて道隆が訪れ、父倫寧が迎えに来、最後は兼家の迎えによって下山することになる。
 作者は藤原倫寧の娘。兼家は藤原師輔の三男で、のちに摂政関白太政大臣に至る。鳴滝は京の西山にある地で、作者が籠った寺はそこにある。見舞いの文を寄こした人、かつて宿直をしていた人、侍女、親族の人、寺の修行者は、いずれも原文に人名の明示がない。
 天禄二年六月のことで、場所は京と鳴滝の山寺である。
 入相の鐘に泣く声を添えることになろうとは思いもしなかった、と詠み送ってきた作者の歌に対する返しである。
 この贈答ののち、宿直の侍女たちのもとへ、かつて宿直をしていた人が歌を寄こす場面へと移っていく。

 初句から二句の「いふよりも聞くぞ悲しき」は、口に出して言う人よりも、それを聞くこちらのほうが悲しい、の意で、「ぞ」の結びが悲しさを強める。籠居の心細さを訴えてきた相手に対し、聞く側の痛みを先に述べる形になっており、慰めというよりも共に嘆く姿勢を示している。三句の「敷島の」は大和にかかる語で、四句の「世」を大和の世すなわちこの世として引き出す。四句の「世にふるさと」の「ふる」は年を経る意と古びる意とを兼ね、そこに故郷という語が重なって、住み古した都の家が念頭に置かれる。山に籠った人に対して、あとに残された家のほうを持ち出すのがこの返しの働きで、山の鐘を詠んできた相手に、都の家を差し向ける形になる。結句は底本に乱れがあって読みが定まらないが、その故郷の人はどうなってしまうのか、という問いかけと解される。

ふるさと:もとの住まい。住み古した里。
ふる:「古る」に「経る」を掛ける。
出典
蜻蛉日記
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