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我ぞげにとけてぬらめや郭公
ものおもひまさる聲となるらむ

歌の意味
私はまことに、心解けて寝ることなどあろうか。ほととぎすは、物思いのまさる声となるのだろう。
鑑賞
 石山に籠って道綱の将来を祈るなどしたのち、五月になっても、人々が聞いたというほととぎすの声を作者はまだ聞いていない。それが人にも恥ずかしく思われて、ひとり歌を詠んだ。
 作者は藤原倫寧の娘。石山は近江の石山寺で、観音の霊験を求めて籠る人が多かった。ほととぎすは夏の初めに鳴く鳥で、その初声を聞くことは当時の人にとって季節の楽しみであり、聞き逃すことは人並みでないしるしともされた。
 天禄三年五月のことで、場所は作者の住まいである。
 石山に籠って道綱の将来を祈るなどしたのち、五月になっても、人々が聞いたというほととぎすの声を作者はまだ聞いていない。それが人にも恥ずかしく思われて、ひとり詠んだ歌である。
 誰かに贈られたものではなく、心のうちにとどまった。このあと蝉の声を聞くころとなり、そばの紅葉の贈答へと移っていく。

 初句の「我ぞげに」は、私はまことに、の意で、「ぞ」が以下を強める。人々がほととぎすの声を聞いたと言うのに自分だけが聞いていない、というところから起こる。二句の「とけてぬらめや」の「とく」は心が解ける、うちとける意で、「ぬ」は寝る意、「や」は反語である。心解けて寝ることなどあろうか、いやありはしない、という意になり、初声を聞き逃した理由を、そもそも安らかに眠れる身ではないからだと説明する形になる。三句の「郭公」は夏の初めに鳴く鳥で、その初声を聞くことは当時の季節の楽しみであった。四句から結句の「ものおもひまさる聲となるらむ」は推量で、その声は物思いをまさらせる声となるのだろう、の意になる。聞き逃したことを嘆くのではなく、聞いたところで物思いが増すばかりだろうと言いなしており、季節の風物を楽しむ側に自分がいないことを、静かに認める形になっている。石山に籠って子の将来を祈った直後に置かれている点も、この一首の位置をよく説明する。

郭公(ほととぎす):夏の初めに鳴く鳥。その初声を聞くことが季節の楽しみとされた。
とく:心が解ける。うちとける。
石山(いしやま):近江の石山寺。
作者
藤原道綱母
出典
蜻蛉日記
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