つもりける年のあやめもおもほえず
今日も過ぎぬる心見ゆれば
- 歌の意味
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積もったという年の文目も、私には分かりません。今日もまた過ぎてしまう心が見えますので。
- 鑑賞
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五月になった。道綱が例の女性に、ほととぎすに寄せて詠み贈り、女性が返した。さらに五月五日の菖蒲の節句には、道綱が菖蒲草に寄せて詠み贈り、女性がまた返した。
作者は藤原倫寧の娘。道綱は作者の子で、この年十九歳。例の女性は大和だつ人と呼ばれる人で、原文は人名を記さない。五月五日は端午の節句で、軒に菖蒲を葺き、薬玉を飾る日にあたる。
天延元年五月五日、菖蒲の節句のことで、場所は三輪の山本にある女性の家である。
節句のこの日を幾度も過ごして年月の長さを知ったと詠み贈ってきた道綱の歌に対する返しである。
この贈答ののち、兼家から歌の合せを求められる場面をはさんで、八月の中川への転居へと移っていく。
相手の「年」「あやめ草」をそのまま受けて返している。初句の「つもりける」は、積もった、の意で、相手が数えてみせた年月を受ける。二句の「年のあやめ」の「あやめ」は菖蒲であるとともに、物の区別や道理をあらわす文目をも意味し、この一語が歌の要にあたる。積もった年の菖蒲、という意と、積もった年の筋道、という意とが重なり、年月がどれほど積もったのか見当もつかない、という返事になる。この掛詞は上巻でも兼家が「隱れぬに生ふる數をば誰か知るあやめ知らずも待たるなるかな」と用い、中巻では作者が「世の中にある我が身かはわびぬれば更にあやめも知られざりけり」と用いており、日記を通じて繰り返される。三句の「おもほえず」は、思われない、分からない、の意。四句から結句の「今日も過ぎぬる心見ゆれば」は、今日もまた過ぎてしまう、そのお心が見えるので、の意で、節句のこの日さえ通り一遍に過ぎてしまうあなたの心を見れば、年数など数えようもない、という当てこすりになる。数えて見せた相手に、数える意味がないと答える形である。
あやめ:菖蒲。「文目」すなわち物の区別や道理を掛ける。
つもる:年月が積もる。
おもほゆ:自然にそう思われる。
- 出典
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蜻蛉日記
- その他の歌
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