思ひきや天つそらなるあま雲を
袖して分くる山踏まむとは
- 歌の意味
-
思っただろうか。天つ空にある天雲を、袖で分けながら山を踏み分けようとは。
- 鑑賞
-
春になり、奥山の寺へ人目を忍んで出かけて祈っていると、やがて夜が明けて雨が降り出した。前の谷から雲が立ちのぼってくるのを見て、ひどく悲しい心地になり、歌を詠んだ。
作者は藤原倫寧の娘。この年、道綱は右馬助となり、院の賭弓のことなどが記されたのち、この物詣での場面になる。奥山の寺がどこであるかは原文に記されない。
天延二年の春のことで、場所は奥山の寺である。
人目を忍んで奥山の寺へ出かけて祈っていると、やがて夜が明けて雨が降り出した。前の谷から雲が立ちのぼってくるのを見て、ひどく悲しい心地になり詠んだ歌である。
誰かに贈られたものではなく、心のうちにとどまった。このあと右馬頭が道綱に託して、養女を妻に迎えたいという手紙をよこす場面へと移っていく。
初句の「思ひきや」は、思っただろうか、いや思いもしなかった、という反語で、身の上の思いがけなさから歌を起こす。二句の「天つそらなる」は、天の空にある、の意で、本来なら仰ぎ見るものであることを示す。三句の「あま雲」は天雲で、上巻の「おくやまの思ひやりだに悲しきに又あま雲のかゝるなになり」以来、この日記では尼を掛けて出家をあらわす語としても用いられてきた。奥山の寺で祈るという場面であるから、その響きがここでも働くと見てよい。四句の「袖して分くる」は、袖で分けて進む、の意で、谷から立ちのぼる雲の中を、袖で払いながら歩くという実景である。空にあるはずの雲を、袖で分けて進むという転倒が、この歌の眼目にあたる。結句の「山踏まむとは」は、山を踏み分けようとは、の意で、初句の反語を受けて言い終える。仰ぎ見るものであった雲の中に自分が入り込んでいるという事態が、そのまま思いもよらぬ身の上のたとえになっており、雲を分けて歩くという一点で景と心とが重なっている。
あま雲:天雲。この日記では「尼」を掛けて出家をあらわすこともある。
山踏み:山道を踏み分けて行くこと。
そで:袖。ここでは雲を払いのけるものとして詠まれる。
- 作者
-
藤原道綱母
- 出典
-
蜻蛉日記
- その他の歌
-