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奥山のおどろの下も踏みわけて
道ある世ぞと人に知らせん

歌の意味
奥山の茨の茂った下までも踏み分けて、どこにも道のある世なのだと人に知らせよう。
鑑賞
第一 おどろのした

 第八十二代の後鳥羽院は高倉院の第四皇子で、平家が安徳天皇を奉じて西海に落ちた後、後白河法皇が孫宮たちを召し寄せて対面したとき、三の宮は法皇を嫌って泣いたが、四の宮はすぐに膝に抱かれて睦まじげであったので、法皇は「これこそ誠の孫」と喜び、寿永二年八月、四歳で即位させた。宝剣は先帝とともに海に沈み、三種の神器なき践祚という前例のない事態となった。法皇崩御の後は院の親政となり、世は治まって和歌の道が栄えた。建久九年、十九歳で土御門院に譲位して院政を始め、水無瀬に離宮を営んで四季の遊びを尽くす。千五百番歌合を催し、和歌所を置いて新古今和歌集を撰ばせ、元久二年に竟宴を行う。承元四年には土御門院を降ろして順徳天皇を立て、順徳もまた和歌に励む。院は水無瀬殿で碁や小弓に興じ、賭物の故実を語り、紫式部の描いた料理を随身に作らせるなど、あらゆる方面に通じた才人ぶりを見せる。建保二年の清撰御歌合では北面の藤原秀能が九首も召され、吉水の僧正慈円は院に長歌を奉り、定家がその場で返しの長歌を書いた。新院土御門院は内々に百首を詠んで家隆
定家に見せ、定家と歌を贈答する。
 後鳥羽院は諱を尊成といい、高倉院の第四皇子、御母は七条院(修理大夫信隆の女)である。土御門院は諱を為仁、御母は承明門院(能円法印の女で、内大臣通親の養女)。順徳天皇は諱を守成、御母は修明門院。摂政九条良経は歌の聖と称され、新古今の撰者には右衛門督通具
有家の三位
定家の中将
家隆
雅経が挙がる。兼光の中納言(藤原兼光)と資実の中納言(藤原資実)はそれぞれ大嘗会の屏風歌を召された。宮内卿は村上天皇の後裔で俊房の左大臣の末、四位ほどで没した人の女である。藤原秀能は院の北面に仕えた歌人、吉水の僧正慈円は天台座主を長く務めた歌僧である。
 建久三年に後白河法皇が崩じた後、後鳥羽院は一人で天下を治め、四方の海は波静かに、吹く風も枝を鳴らさぬ治世であったと語られる。学芸のあらゆる道に明るく、なかでも和歌の道に秀でておられた。
 数知らず人の口にのぼる御製のうち、とくにこれをと引かれたのがこの一首である。
 『増鏡』の語り手はこの歌に、政道を大事と思われる御心がはっきり表れているとして、「いといみじくやむ事なくは侍れ」と評する。この巻の名「おどろのした」もこの歌の第二句に由来する。

 初句「奥山の」は人の踏み入らぬ深山を立て、第二句「おどろの下も」の「おどろ」は茨などの乱れ茂るさまで、道なき場所の象徴となる。「も」は、そこまでもという強めの副助詞。第三句「踏みわけて」で、その道なき所を分け入る行為が示される。第四句「道ある世ぞと」の「道」は山道の意と、人の守るべき正しい道理、為政者の敷く政道との掛詞で、「ぞ」は強めの係助詞。結句「人に知らせん」の「ん」(む)は意志で、知らせようと締めくくる。上の句が具体的な山の景、下の句がその寓意という構えで、景から意へ転じる型を取る。巻名「おどろのした」はここから採られており、後に隠岐で詠まれる「我こそは新島もりよ隠岐の海の荒き浪かぜ心して吹け」と並べると、同じ強い意志の言い切りが院の詠風であることが見えてくる。

おどろ:茨などが乱れ茂っている所。道なき藪
踏みわく:草木を踏み分けて進む
道ある世:道理の行われている世。正しい政道の敷かれた世
作者
後鳥羽院
出典
増鏡
その他の歌