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若菜摘む袖とぞ見ゆる春日野の
飛火の野辺の雪のむらぎえ

歌の意味
若菜を摘む人の袖のように見えることだ。春日野の飛火野の一帯で、まだらに消え残っている雪は。
鑑賞
巻第一 春歌上 13

詞書「崇徳院に百首歌たてまつりける時、春のうた」
 若菜摘みと残雪という、ここまでの二つの主題を一首に重ねた歌である。まだらに消え残る雪を、野に散らばる白い袖に見立てている。詞書によれば崇徳院に詠進した百首歌のうちの春の歌で、久安六年に成立した久安百首を指す。
 作者の「前参議教長」は藤原教長(一一〇九〜没年未詳)である。参議に至ったが、保元の乱で崇徳院方に加わったため配流され、のちに出家した。歌学にも通じ、注釈書を残している。
 場面は早春、場所は春日野の一部である飛火野である。飛火野は烽火を上げる施設が置かれたことに由来する地名で、現在の奈良公園の一帯にあたる。
 直接の契機は百首歌の春の題による詠進である。
 崇徳院の下命による久安百首には俊成をはじめ当代の主要な歌人が名を連ねており、この時期の歌壇を代表する催しであった。

 初句
二句「若菜摘む袖とぞ見ゆる」は見立ての表明で、「ぞ」は係助詞、「見ゆる」がその結びとなる連体形である。まず何に見えるかを先に言い、下の句で実体を明かす構成をとる。
 三句
四句「春日野の飛火の野辺の」は地名を重ねて場所を絞り込む。歌枕である春日野をまず出し、その中の飛火野へと視野を狭める運びになっている。
 結句「雪のむらぎえ」は体言止めである。「むらぎえ」はまだらに消え残ることで、白と土の色が斑になった野の様子をいう。その白い斑点が、若菜を摘む人々の袖に見えるという趣向である。
 実際には人のいない野であり、白いのは雪でしかない。それを人影として見るところに、景色の中に春の営みを読み込もうとする心が働いている。第十首が残雪を素知らぬものとして突き放したのに対し、この歌は残雪に人の姿を重ねており、同じ素材の扱いが対照的である。

飛火の:春日野の一部の地名。烽火を上げる施設が置かれたことに由来する
むらぎえ:雪などがまだらに消え残ること
作者
藤原教長
出典
新古今和歌集
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