- 歌の意味
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桜の咲く遠い山の山鳥の、垂れ下がった尾のように長い春の日をかけても、見飽きることのない色であることだ。
- 鑑賞
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巻第二 春歌下 99
詞書「釈阿和歌所にて九十賀し侍りしをり、屏風に山に桜咲きたるところを」
巻第二
春歌下の巻頭に置かれた一首である。巻第一が春の到来から桜の咲きはじめまでを追ったのに対し、この巻は花の盛りから春の終わりまでを扱う。その最初にあたるこの歌は、屏風に描かれた山桜の絵に添えて詠まれた。詞書の「釈阿」は藤原俊成の法名で、その九十歳の賀が和歌所で行われた折の屏風歌である。
作者の「太上天皇」は後鳥羽院である。『新古今和歌集』巻第一では第二首
第十八首
第三十六首に現れた。
場面は桜の盛りの春の一日、場所は屏風に描かれた山である。俊成の九十賀は元久元年に催された。
直接の契機は九十賀の屏風歌としての詠出である。長寿を祝う場であるから、長い日をなお飽きないと詠むことに祝いの意が込められている。
本歌は柿本人麻呂の歌とされる「あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」である。
初句「桜咲く」は屏風の絵の情景を示し、そのまま二句の「遠山」に係る。
二句「遠山鳥の」は「遠山」と「山鳥」を重ねた言い方で、遠い山にいる山鳥、の意になる。三句「しだり尾の」は垂れ下がった尾で、ここまでが「長々し」を導く序詞として働く。本歌と同じ組み立てである。
四句「長々し日も」で本歌からの転換が生じる。本歌が「長々し夜をひとりかも寝む」と独り寝の長さを嘆くのに対し、この歌は「日」に変え、その長さを花を見るための時間として受け取り直している。嘆きが賞美に反転している。
結句「あかぬ色かな」の「あかず」は満ち足りない、見飽きないの意である。「かな」は詠嘆の終助詞で、長い一日をもってしてもなお足りないという言い方が、そのまま賀の言葉となる。
巻第一の第九十八首が花を雪と見紛うところで閉じられたのに対し、この巻は花の色そのものを飽かず眺めるところから始まる。
しだりを:垂れ下がった尾
あかず:満ち足りない。見飽きない
しゃくあ:藤原俊成の法名
- 作者
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後鳥羽院
- 出典
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新古今和歌集
- その他の歌
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