暮れてゆく春の湊は知らねども
霞に落つる宇治の柴舟
- 歌の意味
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暮れてゆく春の行き着く湊はどこか知らないけれど、霞の中へ下っていく宇治の柴舟よ。
- 鑑賞
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巻第二 春歌下 169
詞書「五十首歌たてまつりし時」
春の終わりを惜しむ歌の三首目である。春を舟に見立て、その行き着く先を問う。詞書によれば五十首歌を詠進した折の一首である。
作者の寂蓮法師は藤原俊成の甥で養子となり、のちに出家した。『新古今和歌集』の撰者に任じられたが、完成を見ずに没した。本巻では第百五十四首
第百五十五首に続く三度目の登場となる。
場面は春の終わり、場所は山城国の宇治川である。
直接の契機は五十首歌の詠進である。
本歌は『古今和歌集』秋下の「年ごとに紅葉葉流す竜田川湊や秋の泊りなるらむ」で、季節の行き着く先を湊と見る趣向を受けている。
初句「暮れてゆく」は、暮れていく、終わりに向かう、の意である。「ゆく」を添えることで、進行の途中であることが示される。
二句「春の湊は」で、季節を舟に見立てる趣向が明かされる。本歌が秋の泊りを問うたのに対し、こちらは春の湊を問う。季節を入れ替えた本歌取りである。
三句「知らねども」の「ど」は逆接で、知らないけれども、と下に転じる。答えの出ない問いを立てたうえで、目の前の景に移る。
四句「霞に落つる」の「落つ」は川を下る意である。「霞」は春の景物で、その中へ舟が消えていく。
結句「宇治の柴舟」は体言止めである。「柴舟」は柴を積んだ舟をいう。春の行方という抽象的な問いが、霞に紛れて見えなくなる一艘の舟という具体に置き換えられて終わる。答えを示さず、消えていく姿だけを残す結び方である。
みなと:船の行き着く港。川の落ち合うところ
おつ:川を下る
しばぶね:柴を積んだ舟
- 作者
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寂蓮法師
- 出典
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新古今和歌集
- その他の歌
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