- 歌の意味
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雨の注ぐ花橘に風が吹き過ぎて、山時鳥が雲の中で鳴いているらしい。
- 鑑賞
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巻第三 夏歌 202
詞書は前の歌に続き「郭公の歌」
前歌と同じ百首歌の詠である。原文では詞書も作者名も改めて記されておらず、前の歌と同じ作者が続くことを示している。前歌が声を拒んだのに対し、この歌は雨と風と声を並べて景として示す。
作者は前歌に続いて藤原俊成である。
場面は夏の夜、場所は花橘の咲くあたりである。
直接の契機は「郭公」の題による詠である。
花橘は橘の花で、その香が昔を思い出させるものとして古くから詠まれてきた。
初句「雨そそく」の「そそく」は注ぎかかる意である。巻第一の第三十二首の志貴皇子歌でも「岩そそぐ」と用いられていた。
二句「花橘に」で対象が示される。花橘は香によって昔を呼び起こす花とされ、前歌の「昔思ふ」と響き合う。二首が記憶という主題で結ばれている。
三句「風過ぎて」は、風が吹き過ぎて、の意である。雨、花、風と要素が重ねられ、香が立つ条件が整う。
四句「山時鳥」で鳥が示される。前歌の結句と同じ語であり、二首が同じ語を共有している。
結句「雲に鳴くなり」の「なり」は伝聞推定の助動詞で、声によって判断していることを示す。第二百首が月の桂の陰に鳴くとしたのに続き、ここでも鳥は雲の中という手の届かない場所に置かれている。地上には雨と花と風があり、鳥だけが天にいるという構図になっている。
そそく:注ぎかかる
はなたちばな:橘の花。その香が昔を思い出させるものとされた
なり:伝聞推定の助動詞
- 作者
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藤原俊成
- 出典
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新古今和歌集
- その他の歌
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