- 歌の意味
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寂しさといえば、深山の秋の朝曇りのころ、霧に濡れてしおれる真木の葉から滴り落ちる下露だ。
- 鑑賞
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巻第五 秋歌下 492
詞書「秋歌とて」
霧を詠む一連の二首目である。寂しさの極みを、深山の秋の朝曇りに、霧に濡れてしおれる真木の下露として示す。詞書によれば、秋の歌として詠まれた。
作者は高倉天皇の皇子で、譲位後に院政をしき、和歌所を置いて新古今集の撰集を命じた。承久の乱に敗れて隠岐に配流された。
場面は霧の立ちこめる秋の朝、場所は真木の茂る深山である。
直接の契機は秋の歌の詠作であるが、詞書に詠まれた場や年次は記されていない。
初句「寂しさは」の「は」は、他と区別して示す係助詞で、寂しさを主題として掲げ、以下でその具体を示す。巻第四の第三百六十一首「寂しさはその色としもなかりけり」と同じ初句で起こしている。
二句「深山の秋の」は、奥深い山の秋の、の意である。
三句「朝曇り」は、朝の曇りで、霧の立ちこめる薄暗い朝を示す。前歌の第四百九十一首が秋の夕暮を詠んだのに対し、本歌は朝を詠む。ここで一度切れる。
四句「霧にしをるる」の「しをるる」は、霧に濡れてぐったりする意の「しをる」の連体形である。
結句「真木の下露」は体言止めで、真木の枝葉から滴り落ちる露である。寂しさそのものを、霧に濡れた真木の下露という一つの景に凝縮して示している。前歌の第四百九十一首とは「真木」を共有し、夕暮に霧が立ちのぼる動きの景と、朝曇りの霧に葉がしおれ露が滴る静かな景とが対をなす。巻第四の第三百六十一首が寂しさは特定の色によるものではないとして真木立つ山の夕暮を示したのに対し、本歌は寂しさを深山の朝の真木の下露に見出しており、同じ「寂しさは」の問いに別の時と景で答えている。
しをる:草木が露などに濡れてぐったりする
したつゆ:草木の葉から滴り落ちる露
- 作者
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後鳥羽院
- 出典
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新古今和歌集
- その他の歌
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